2019年5月26日日曜日


2019年6月2日 午前10時30分

復活節第7主日礼拝(No9

      司式 高岸 泰子  

    奏  黙 想        奏楽 内山 央絵

招  詞  93-1-44

讃 美 歌  10

主の祈り  (93-5A) 

交読詩編  詩編50・1~23(着席のまま)

讃 美 歌  495

聖書朗読  エゼキエル書3・8-9

      使徒言行録1・12-26

祈  祷

讃 美 歌  287

説  教  「破れからの出発」

               戒能 信生牧師

祈  祷

讃 美 歌  394



使徒信条  (9341A

献  金  対外献金「千葉支区京葉中部教会会

 堂建築を覚えて」   石井 房恵

報  告

頌  栄  23

派遣・祝福

後  奏         



【本日の集会】

・教会学校 お話し・戒能牧師、奏楽・内山央絵

・礼拝後、お茶の会

・定例長老会

2019年5月25日土曜日


牧師の日記から(215

519日(日)主日礼拝。Ⅲヨハネ書簡515節の講解説教「余所から来た人たちに」。田川健三さんの『訳と註』を参考に、第Ⅱ書簡と第Ⅲ書簡の緊張関係を取り上げる。第Ⅱ書簡で「家に入れるな、挨拶もするな」と排斥されている巡回伝道者たちを、第Ⅲ書簡で賞賛されているガイオという教会員が迎え入れ歓迎したとする大胆な解釈。つまり第Ⅱ書簡を第Ⅲ書簡が批判しているということになる。「余所から来た人たち」を受け入れよという第Ⅲ書簡のメッセージは、今日の難民問題や外国人排斥の風潮に対する現代的な使信でもある。礼拝後、オリーブの会で荒井眞さんが、「主の祈り」の様々な讃美歌を紹介してくれた。グレゴリオ聖歌から始まり、イギリス聖公会や現代アメリカの合唱曲、そしてロシア正教会の讃歌を聴く。なかなか得がたい経験だった。午後から小石川白山教会で北支区の准允式があったが、体調が整わず出席できなかった。

20日(月)午前中、電車で東駒形教会での月曜会に出席。大貫隆さんの『終末論の系譜』Ⅴ-Ⅵ章を酒井薫牧師の紹介と発題で取り上げる。大貫さんのこの大著は、評価はともかく丁寧に読んでいく必要がある。帰宅して少し休んで、夜は目白の聖書神学校の授業。往復はタクシーを利用する。受講生たちの海老名弾正についてのリーディング・レポートはいずれも優れたものだった。

21日(火)午前中、神学読書会でシュライエルマハーの『宗教について』の第Ⅰ講を、豊島岡教会の濱田美也子牧師の紹介で取り上げる。実は、この本は今何かと話題になっている深井智朗さんの翻訳。深井さんの事件の真相は私には分らないが、バッシングが過ぎるように感じている。特にその内容に問題がないとされた他の著作まで絶版とか出荷停止という扱いは行き過ぎだと思う。その旨を深井さんにメールして、神学読書会に出席しないかと誘ってみた。今回は出席できないが「深く感謝します」という返事が届いた。午後、雨の中を姉と妹たちが訪ねてくれる。浦安教会の小林順子さんと大野朝男さんも一緒。私の見舞いという意味もあるが、家族と親しく語り合う喜びに感謝する。

22日(水)この日の聖書を学ぶ会はお休み。終日書斎で『時の徴』の校正作業。6月初めにさがみ愛育会創立70年の記念講演を頼まれているので、その準備に手をつける。6月中に4回も講演を引き受けているので、体調がもつか案じている。

23日(木)昼前にNCAの事務所に顔を出し、プログラム印刷などの作業。午後はキリスト教会館管理組合の決算総会に出席。午後3時から運営委員会。新しい企画や来年度の計画の相談。夕方タクシーで帰宅。夜は、NCA運営委員会の記録を作成し、関係各所にメールで送る。このところ足の痛みは薬で抑えられている。

24日(金)6月の教会カレンダー作り。ヨハネ書簡の講解説教が終った後、どの聖書箇所を取り上げるかで悩む。ちょうどペンテコステなので、思い切って「使徒言行録ところどころ」を取り上げることとする。夜は、支区宣教研究委員会でエパタ教会へ。思い切って自転車で行ってみた。(戒能信生)

2019年5月19日日曜日


2019年5月26日 午前10時30分

復活節第6主日礼拝(No8

      司式 鈴木志津恵  

    奏  黙 想        奏楽 釜坂由理子

招  詞  93-1-44

讃 美 歌  10

主の祈り  (93-5A) 

交読詩編  詩編49・1~21(着席のまま)

讃 美 歌  537

聖書朗読  ヨシュア記1・1-9

祈  祷

讃 美 歌  470

説  教  「強く、雄々しくあれ」

               戒能 信生牧師

祈  祷

讃 美 歌  536



使徒信条  (9341A

献  金             石井 房恵

報  告

頌  栄  23

派遣・祝福

後  奏         



【本日の集会】

・教会学校 お話し・大森意索、奏楽・戒能直子

・礼拝後、お茶の会

CS教師会

・週報発送作業(ご協力ください)

・らふぁえる練習

2019年5月18日土曜日


牧師の日記から(214)「最近読んだ本紹介」

大貫隆『終末論の系譜』(筑摩書房)新約聖書学者の大貫隆さんの、これまでの研究の集大成とも言うべき500頁を越える大著。初期ユダヤ教からグノーシスまで、つまり紀元前2世紀頃から、紀元2世紀終盤頃までの終末論の変遷を整理してまとめてくれている。従来の聖書学では、旧約聖書の終末思想、あるいは新約聖書の黙示文学的背景として、それらは別個に取り上げられてきたが、この書物では旧約から新約を貫く終末思想の展開と変遷が、外典も含めて大胆に整理される。その一つ一つの細かな論述の背景に、著者の膨大な研究蓄積が込められていることに気づかされる。一回通読しただけではとても理解し切れない。今後は巻末のインデックスを頼りに、繰り返しこの書を繙くことになるのだろう。ただ、しきりに引用されるベンヤミンやアガンベンの聖書解釈についての議論は、前著の『イエスの時』でもそうであったが、どうしてもついて行けない。この本の中でも著者はこう言う。「『イエスという経験』を繙き始めたものの、読むに耐えなくなって、途中で放り出してしまった読者もいる。それは他でもない私が長く敬愛してきた牧師であり、それまで内外の批判的なイエス研究を数多く読みこなしてきた人物である」と。まさにそれは私自身のことを指しているようだ。そして著者は続けてこう書く。「これらの反応が一致して示しているのは、抜きがたい近代主義である。・・・そのような近代主義からは一体どのようなイエス像が描き出されただろうか」と。この痛烈な批判にどう応えるべきか課題を与えられた。

村木嵐『夏の坂道』(潮出版社)硬骨の政治学者南原繁の生涯を小説化したもの。よく調べてあるのだが、どこか通俗小説を読んでいるような印象を受ける。三谷隆信と南原の交友を軸に書かれているのだが、矢内原忠雄と三谷との親交については全く触れられていない。そもそも南原が初めて内村鑑三を訪ねたところに一高生の矢内原が顔を出すなどという史実はあり得ない。何より会話がすべて現代語風に書かれているので、何とも間が抜けてしまう感がある。南原繁を小説化しようとする勇気は多とするが、どうも期待外れの一冊だった。

鈴木範久『文語訳聖書を読む 名句と用例』(ちくま学芸文庫)本書の前半は日本語訳聖書の歴史の素描で、簡にして要を得ていてとても役に立つ。特に「主の祈り」が各翻訳でどのように訳されているかの実例が挙げられており、それを比較するだけで、それぞれの翻訳の特徴を理解することが出来る。しかし何と言ってもこの書物の読みどころは、内村鑑三から始まって太宰治に至るまで、この国の文学者や宗教者の著作に聖書がどのように引用されているかを紹介する第3章。また第4章では、それこそ明治以来の思想家、文学者、政治家たちに文語訳の旧新約聖書がどの引用され理解されているかを網羅的に紹介している。こんな調査は、長い時間をかけて、カードを作成しながら忍耐をもって継続しなければ出来ない力業で、鈴木範久先生ならではの仕事と感服させられた。(戒能信生)

2019年5月13日月曜日


2019年5月19日 午前10時30分

復活節第5主日礼拝(No7

      司式 野口 倢司  

    奏  黙 想        奏楽 梅本 順子

招  詞  93-1-44

讃 美 歌  10

主の祈り  (93-5A) 

交読詩編  詩編48・1~15(着席のまま)

讃 美 歌  206

聖書朗読  申命記7・6-

Ⅲヨハネ書簡5-8

祈  祷

讃 美 歌  333

説  教  「よそから来た人たちを」

               戒能 信生牧師

祈  祷

讃 美 歌  569



使徒信条  (9341A

献  金             萩原 好子

報  告

頌  栄  23

派遣・祝福

後  奏         



【本日の集会】

・教会学校 お話し・齊藤織恵、奏楽・戒能直子

・礼拝後、オリーブの会「主の祈り」お話し・荒井眞

2019年5月11日土曜日


牧師の日記から(213)「最近読んだ本紹介」

原武史『平成の終焉 退位と天皇・皇后』(岩波新書)著者は、現代天皇制についての批判的観測者とも言うべき政治思想史研究者。この新書は、平成天皇の生前退位について分析し、その問題点を整理してくれている。生前退位についてのテレビ放送について、それが政治行為であることの問題だけでなく、それによって民意が一変したことの危うさを指摘していて考えさせられた。つまり昭和天皇の「終戦の詔勅」のラジオ放送と同じだというのだ。また平成天皇夫妻が海外の激戦地への慰霊の旅を続けて来たことを評価しながらも、侵略の最前線への訪問はしていない事実も指摘している。さらに「天皇が神とされた時代とあまり変わらない警備や規制がしかれている」事実についても問題としている。平成の時代の天皇制の問題点を鋭く指摘していて学ばされた。

半藤一利『戦う石橋湛山』(ちくま文庫)戦前、東アジアへの侵略を続けて「大日本主義」を推進したこの国にあって、「小日本主義」を唱えて、植民地の放棄を主張した希有な経済ジャーナリスト石橋湛山を基軸に据えて、昭和史を検証している。熱心な仏教徒であった湛山が、その論説「一切を捨つるの覚悟」(大正107月)の中で、「朝鮮・台湾・満州を捨てる、支那から手を引く、樺太もシベリアも要らない、そんなことでどうして日本は生きていけるか、と。キリスト曰く、何を喰い、何を飲み、何を着んとて思い煩うなかれ、汝ら先ず神の国とその義とを求めよ、しからばこれらのものは皆、汝らに加えらるべし」と、聖書を引用しているところが興味深い。ただ、このように激越な論説を繰り返していた湛山が、一度も逮捕されず、社長を務めた東洋経済新報社が最後まで社論を変えずに存続出来たこと、さらに昭和10年内閣調査局委員、昭和11年商工省重要産業統制委員、昭和13年企画院企画委員などの政府の要職に任命され、それは戦時下も継続され、さらに昭和20年の敗戦直前に至るまで内閣や大蔵省などの様々な役職を担っているのが不思議といえば不思議。このあたりに、戦後も自由民主党の総裁として短期間ではあったが首相を務めた理由があるのだろうか。

嵐護『正直に生きた牧者柏木義円に魅せられて』(自費出版)橋本茂さんから、同郷の高知出身で、東北大学の後輩、同じく宮田光雄聖書研究会出身の嵐護牧師のこの本を教えられ、すぐに著者から送って頂いて読んだ。嵐牧師は高知県庁の職員を定年退職した後、同志社神学部大学院に学んで牧師になった人で、私も何かの会議でご一緒したことがある。柏木義円を取り上げた修士論文が骨子になっているが、牧者である義円に注目したところに共感した。義円は日露戦争に反対し、天皇の神格化に疑問を呈し、組合教会の朝鮮伝道に激しく反対した反骨の牧師だが、何より安中教会の牧師を38年に渡って続けたことにこそ真骨頂があると私は考えている。その意味で嵐牧師のこの本も牧会者・義円を強調している点に共感した。

(戒能信生)

2019年5月5日日曜日


2019年5月12日 午前10時30分

復活節第4主日礼拝(No6

      司式 橋本  茂  

    奏  黙 想        奏楽 釜坂由理子

招  詞  93-1-44

讃 美 歌  10

主の祈り  (93-5A) 

交読詩編  詩編47・1~10(着席のまま)

讃 美 歌  204

聖書朗読  ミカ書4・4-6

Ⅲヨハネ書簡1-4

祈  祷

讃 美 歌  333

説  教  「真理に歩め」

               戒能 信生牧師

祈  祷

讃 美 歌  575

使徒信条  (9341A

献  金

報  告

頌  栄  23

派遣・祝福

後  奏         



【本日の集会】

・教会学校 お話し・野口陽子、奏楽・戒能直子

・礼拝後、お茶の会

・聖書を読む会(創世記391-23ボティファルの妻 担当・橋本悠久子)

牧師の日記から(212)「最近読んだ本紹介」

関根清三『内村鑑三 その聖書読解と危機の時代』(筑摩書房)座骨神経痛の痛みで横になりながら、関根清三さんのこの労作を通読した。著者は旧約聖書学者関根正雄先生の子息で、東大の倫理学で学位を所得してから、ドイツに留学し旧約聖書学の学位を取ったという私と同世代の俊秀。ずっと以前、エイズ患者について、血友病の血液製剤の輸血によってエイズに罹患した人と、性行為によって罹患した場合を区別すべきという著者の論考を読んでガッカリしたことがある。問題の血液製剤を制作し販売した企業の責任や厚生省の不作為を問わないで、難病に苦しむ人に優劣をつけるのが倫理学だとすると、そういう倫理学は要らないと放り出したことがあった。以来この人の著作は敬遠して来たのだが、内村鑑三を聖書学の立場からどのように読めるのか関心をもって読んでみた。従来内村については、日清戦争を義戦としていたのに、日露戦争については非戦論を唱えた点、その再臨運動の問題点、あるいは関東大震災に際して天譴論を主張したことなどが議論されてきた。著者は、徹底して内村の文章や日記に即してその聖書理解を探り、そこに一貫した姿勢を見出している。その論究は鋭く説得力がある。特に引用される内村自身の文章から多くを学ばされた。しかし内村の天皇観の問題だけは取り上げられていない。30年前の代替わりの際、私自身が依頼して父上の関根正雄先生に天皇制について原稿を書いて頂いたことがある。それだけに、画竜点睛を欠く思いだった。

柳父圀近「無教会における天皇制観の展開」(『内村鑑三研究』52号、教文館)関根清三さんの大著を読んで、内村の天皇観に触れられていないことに不満を覚えているところに、しかも平成天皇の代替わりの折も折、東北大学の柳父先生からこの論考と「無教会における『福音と国家』」(『ピューリタニズム研究』13号)が送られてきた。『内村鑑三研究』のこの号には、黒川知文さんの「戦争の時代における無教会運動」も掲載されていて、いずれも象徴天皇制下の代替わりの問題を念頭に、内村やその後の無教会の人々の戦争観・天皇観を概観している。無教会の指導者たちの戦争責任について、1970年代に藤田若雄先生たちが手をつけたが、無教会の関係者の間ではほとんど無視された経緯がある。しかし現在では、このように詳細な事例研究が行われていることに感銘を受けた。事実、黒川さんは「無教会運動と戦争に関する研究は少なく、戦争中に発行された無教会の雑誌の内容を分析したものは見受けられない」と率直に認めている。特に矢内原忠雄と塚本虎治の戦中の言説の比較が詳細になされていて興味深かった。

内村鑑三『後生への最大遺物』(岩波文庫)たまたま内村鑑三についての研究を立て続けに読んだので、本棚から引っ張り出して読み直した。若き日の内村の講演で、その文章の力と迫力に改めて感銘を受けた。ただ一つ気になったのは、『後生への最大遺物』のキーワードとされる「勇ましく高尚な生涯」という言葉が、このバージョンでは直接的には出てこない点なのだが・・・。(戒能信生)