2015年7月31日金曜日

牧師の日記から⑰「解脱会のこと」
7月の2124日、農村伝道神学校の「日本宗教史」の集中講義でした。朝10時から、午後3時まで、昼休みを挟んで一日4時間の講義を4日間続けるのですから、結構大変です。「日本宗教史」と言っても、仏教や神道などの伝統宗教ではなく、この授業では「近代日本における新宗教の発生と社会基層の変動」というテーマを取り上げます。幕末期、第二次大戦の敗戦直後、そして1990年前後の三期にわたってこの国に様々な新宗教が発生した事実に注目し、それがどのような社会変動と人々の心理や心情を反映しているかを分析するものです。オウム真理教以降のこの国の宗教状況を考えるためでもあります。これから牧師として各地の教会に仕えようとする神学生たちにとって、自分の信仰の在りよう、また宗教者としての自覚を捉え直す機会にもなります。この講義の一環として、都内にある新宗教の本部を学生たちと一緒に訪ねて、宗教施設を見学するとともに、教団幹部や指導者に直接インタビューすることにしています。これまで創価学会、立正佼成会、霊友会、大本教、天理教、金光教、モルモン教などの本部を訪問して来ました。今年はどの新宗教を訪ねようかと探しあぐねていたとき、千代田教会のすぐ近くに「解脱会」があることに気がつきました。

荒木町4番地、津の守坂を登って行って新宿通りの手前右側に、「解脱会」の本部があります。開祖・岡野聖賢(18811948年)が、独自の神秘体験を経て昭和4年にこの地で立教し、現在では全国各地、アメリカも含めて380支部、公称20万人の信徒を有する中堅新宗教です。もともとは真言宗醍醐派の系列だったのですが、伊勢神宮などの神社信仰や山岳信仰とも習合し、在家宗教として独特の発展をしたとされています。明確な教理をもたず、また祖先崇拝や氏神や菩提寺を容認し、緩やかな教団組織で、皇室とも親近性を保持しているところに特徴があります。学生たちは遠慮なく質問し、宮坂保徳教育部長たちが丁寧に応対してくれました。キリスト教以外の宗教についてほとんど知識もなく、特に新宗教には偏見すらもっている神学生たちにとって、他宗教、それも解脱会のような新宗教の実際に触れることは得難い経験であり、興味が尽きないようでした。私自身は、改めてこの四谷の地の宗教的な背景を考えさせられました。(戒能信生)

2015年7月26日日曜日

2015年8月2日 午前10時30分
聖霊降臨節第11主日(平和聖日合同)礼拝No.17
     司式  橋本  茂
    奏  黙 想       奏楽 内山 央絵
招  詞  (93-1-53
讃 美 歌  12 
主の祈り  (93-5A) 
交読詩篇  詩編18・1~51
讃 美 歌  514
聖書朗読  フィリピ書4・1-14
祈  祷
讃 美 歌  518
使徒信条  (93-4-1A)
説  教  『足ることを知る』
戒能 信生牧師
祈  祷
讃 美 歌  520
聖餐式  配餐・橋本 茂・常盤陽子
讃 美 歌  81
献  金  対外献金「ネパール大地震被災者を覚えて」      石井房恵
報  告
頌  栄  90番
派  遣
祝  福

後  奏         

2015年7月24日金曜日

牧師の日記から⑮「対外献金のこと」
7月の長老会で話し合われた結果、新しく対外献金を8月の第一主日礼拝から、月に一度、実施することになりました。その理由と方法についてごく簡略に説明します。
千代田教会に来て、対外献金をどうしているかが気になりました。もちろんクリスマスには対外献金として各施設に送られることになっています。しかし私のささやかな経験から言えば、教会はいつもそれぞれ困難を負う教会や災害の被災に苦しむ人々を覚えて献げることが求められています。つまり教会員がその献身のしるしとして献金を重んじるのと同じように、各個教会もまたそれぞれの仕方で対外献金を担うべきだと考えてきました。また様々な機会にそのように勧めても来ました。そして実際に献げる教会、より他者に仕える教会は、財政的にも祝福されて来たというのが実感です。
しかし千代田教会のように、財政的に余裕のない場合、特に実質的に赤字予算になっている場合に、対外献金をどうしたらいいでしょうか。そこで一つの提案として、月に一度、第一主日礼拝の席上献金の際に、席上献金とは別に、具体的に献げる教会や施設の名前を明示した上て、もう一度対外献金の籠を回してはどうだろうかというアイデアです。もちろん献げる金額などは全く自由です。私たちの教会が、より困難を負う小さな教会や被災者たちのことを祈りに覚えて献げる機会としたいと願っています。
どこに対外献金を送るかは、毎月長老会で検討して決定します。地方の小さな教会の会堂建築や、災害の被災者支援などが必要に応じて選ばれると思います。そのことを週報にもその都度記載します。8月第一主日(82日)の礼拝では、教団社会委員会から呼びかけられているネパール大地震の被災者たちを覚えて対外献金をすることにしたいと思います。この献金は教会会計の担当者が集約して、教団社会委員会を通して、WCC(世界教会協議会)の難民救援プロジェクトACTに送付されることになります。

皆さんに負担を負わせることになりますが、千代田教会がさらに仕える教会に、より献げる教会になるために、この新しい対外献金の試みをご理解いただき、ご協力いただきたいと思います。(戒能信生)

2015年7月19日日曜日

2015年7月26日 午前10時30分
聖霊降臨節第10主日礼拝(今年度No.17
     司式  高岸 泰子
    奏  黙 想       奏楽 釜坂由理子
招  詞  (93-1-49
讃 美 歌  11 
主の祈り  (93-5A) 
交読詩篇  詩編17・1~15
讃 美 歌  72
聖書朗読  創世記16・1-16
祈  祷
讃 美 歌  467
使徒信条  (93-4-1A)
説  教  『顧みられる主』
戒能 信生牧師
祈  祷
讃 美 歌  483
献  金               戒能 直子
報  告
頌  栄  91番
派  遣
祝  福

後  奏         

2015年7月18日土曜日

牧師の日記から⑭「週報の兄姉問題」
先週から「週報」の氏名の記載の仕方を変更しました。礼拝の司式者や奏楽者、受付当番の担当者等のお名前に付けられていた「兄・姉」が省かれたのです。長老会で話し合って、教会員のお名前はフルネームで記し、「兄・姉」は付けないことにしたのです。
多くの教会で、この「兄・姉」が広く用いられてきました。どうして教会では名前の後に「兄・姉」と付ける習慣が生まれたのでしょうか。第一の理由は、キリスト教会で教会員同士がお互いに「兄弟」「姉妹」と呼び合う古くからの麗しい習慣があったことが挙げられます。第二に、この国のプロテスタント教会がお手本にして来たアメリカの教会の、氏名の前に敬称としてMr. Mrs. Missを付ける慣習に倣ったという説があります。そして第三に、謄写版などで週報を印刷する際、フルネームを記載するスペースを節約するため、姓だけに「兄・姉」を付して区別したという事情があるようです。しかし現在では、ほとんどの教会でこの「兄・姉」は使用されなくなっています。アメリカの教会でも、Mr. Mrs. Miss.は用いられくなっています。敢えて性別を付すことに対する拒否感、さらに女性にだけ結婚しているかどうかの明示を求める慣習への批判があったようです。またPCによるワードプロセッサーの普及によって、氏名をフルネームで表記するようになり、敢えて「兄・姉」をつける必要がなくなったこともあります。そしてもう一つ、性同一性障害のケースなどで「兄・姉」を付けることがふさわしくないと考えられるようになったこともあるようです。

以前仕えていた東駒形教会で、実際にこういうことがありました。その教会では、千代田教会と同じく、礼拝に出席した人が受付でそれぞれのお名前を記入する方法が採られていました。但し、男性は左の欄に、女性は右の欄に名前を書く習慣でした。記録を残す際に、男女別の出席者数を報告する必要があるからです。ところがある年のクリスマス礼拝に一人の若者が出席して、受付の礼拝出席ノートの前で立ちすくんでいました。気がついて声をかけると、どちらに書いたらいいか分らないと言われるのです。後でその方が性同一性障害だったことが判りました。こうなると、男女別の出席人数を算出すること自体が問題になります。悩ましい問題ではあります。(戒能信生)

2015年7月12日日曜日

2015年7月19日 午前10時30分
聖霊降臨節第9主日伝道礼拝(今年度No.16
     司式  荒井久美子
    奏  黙 想       奏楽 内山 央絵
招  詞  (93-1-49
讃 美 歌  11 
主の祈り  (93-5A) 
交読詩篇  詩編16・1~11
讃 美 歌  346
聖書朗読  フィリピ書4・2-9
祈  祷
讃 美 歌  396
使徒信条  (93-4-1A)
説  教  『常に喜びなさい』
戒能 信生牧師
祈  祷
讃 美 歌  479
献  金               野口 洋子
報  告
頌  栄  91番
派  遣
祝  福

後  奏         

2015年7月9日木曜日

牧師の日記から⑭「日本美以四谷教会のこと」

先週紹介した四谷浸礼教会よりもさらに早く、この四谷の地に伝道を開始した教会があります。明治171884)年に四谷区傳馬町1丁目に借家して始まった日本美以四谷教会です。初代牧師は河村天授牧師。明治21年に、四谷坂町96番地(現在の千代田教会から100mほど西、教会の前の道路を津の守坂の手前で左に折れ、新宿歴史博物館に上って行く坂の途中右側)に土地を求めて会堂を献堂します。616日の献堂式には150席が満席になったと記録にあります。教勢は徐々に進展し、本多斎牧師(本多庸一の実弟)の時代には、教会員数64名、礼拝出席平均49名、日曜学校出席平均60名となり、「ミス・ホールブルック来りて王女会を創立し、編物、刺繍、帽子制作、料理などを教えられた。そこには多くの名流夫人も出入りし、東條英機元首相は当時学齢前で母親に連れられ出席していていることが写真に残っている」そうです。牛込区東大久保に開拓伝道を始めるなど盛んに伝道していましたが、明治34年、その大久保教会と合同して教会名称を「城西教会」と変更します。青山学院の神学生時代の思い出を武藤健牧師(後の本郷中央会堂牧師、日本基督教団議長)が次のように書き残しています。「私が城西教会に通い始めたのは大正24月頃からであった。……青年のエネルギーは伝道の方にもよく発散され、夕ともなれば、私たちは街頭に出て讃美歌を歌い説教をした。元の陸軍士官学校下など、その古戦場である。日曜夜の集会は若い者に任されていた。私たちは交代で所感を語り、証しした。」また、大正期に牧会した増田金四郎牧師は、「当時の会堂は、四谷坂町の狭い通りの行き止まりに近い、あまり人通りのない所にありました。建物は、教会堂というよりはバラックといった方が適していました。天井は低く、未だガス灯が下がっていました」と回想しています。そういう立地が問題になったのでしょうか、昭和91934)年、「多年懸案であって容易に長年実行しかねていた教会移転のことを、郊外伝道進出の為に敢行し」、渋谷区代々木西原町969に会堂を建築して移転します。この城西教会は戦災で焼失しますが、同じ場所(現在の京王線幡ヶ谷駅近く)に戦後再建され、幼稚園と共に今も健在です。(『日本基督教団城西教会八十年史』1963年を参考にしました。)(戒能信生)

2015年7月5日日曜日

2015年7月12日 午前10時30分
聖霊降臨節第8主日礼拝(今年度No.15
     司式  常盤 陽子
    奏  黙 想       奏楽 釜坂由理子
招  詞  (93-1-49
讃 美 歌  11番 
主の祈り  (93-5A) 
交読詩篇  詩編15編1~5節
讃 美 歌  482番
聖書朗読  フィリピ書3章17-4章1節
祈  祷
讃 美 歌  502番
使徒信条  (93-4-1A)
説  教  『この卑しい体をさえ』
戒能 信生牧師
祈  祷
讃 美 歌  504番
献  金               萩原 好子
報  告
頌  栄  91番
派  遣
祝  福

後  奏         

2015年7月4日土曜日

牧師の日記から⑬
千代田教会の創立は、194754日とされています。この日、飯田橋の東京YMCA講堂(旧・植村記念会館)で最初の礼拝をしたからです。その後、現在地「新宿区坂町10番地」に土地を取得、19511111日に献堂式をしています。
ところでこの四谷周辺の地域に、明治・大正期にどのような教会があったかを調べていて、バプテスト四谷教会(四谷浸礼教会)の存在を知りました。この教会は、現在四谷1丁目にある四谷新生教会(1951年創立)とは別で、固有の長い歴史があったのです。
四谷浸礼教会の創立は、1888(明治21)年のフィッシャー宣教師による四谷講義所に遡ります。その後、この教会は四谷周辺を何度も移転していますが(荒木町に集会所があった時期もある)、1913(大正2)年に四谷箪笥町94に集会所を移します(現在の千代田教会から100メートルほど四ツ谷駅寄りの場所)。この時代の四谷浸礼教会の様子を作家の吉屋信子が小説『地の果まで』に詳しく描いています。また最初の歌謡曲歌手となった佐藤千夜子もそのメンバーでした。現在の四谷新生教会の場所にバプテストの女子寄宿舎があったためです。その後、1922年(大正11年)に四谷南寺町48(現在の須賀町14-1)に新しく土地を求めて移転、立派な礼拝堂を献堂して、活発な宣教活動を展開していました。しかし戦災で焼失したことと、戦後キリスト教ジャーナリズムで活躍した阿部行蔵牧師(都立大学教授、後の革新系立川市長)の既存の教会へのラディカルな批判もあって、1962年に解散し、教会員は近隣の早稲田教会などに転籍して行きます。

この四谷浸礼教会が左内坂町(現在の防衛庁の東側、市ヶ谷駅寄りの場所)に会堂があった時期の記録に、救世軍の山室軍平、ホーリネスの中田重治と並んで、組合教会の松野菊太郎牧師が何度も講壇に招かれて応援しているという記録を見つけて驚きました。すなわち千代田教会名誉牧師松野俊一牧師の祖父にあたります。その当時、バプテスト教会は教派を超えた交流をしていたことが判ります。四谷周辺のキリスト教宣教の歴史からいろいろ学ばされることがありそうです。(古谷圭一著『近代日本の戦争と教会 日本基督教団四谷教会史』さんこう社、2011年を参考にしました。)(戒能信生)