2016年8月28日日曜日

2016年9月4日 午前10時30分
聖霊降臨節第17主日礼拝(No23
     司式 荒井久美子
    奏  黙 想       奏楽 内山 央絵
招  詞  93-1-
讃 美 歌  18 
主の祈り  (93-5A) 
交読詩篇  詩編76・1~13
讃 美 歌  476
聖書朗読  エレミヤ書50・4-7
      エフェソ書4・25-5・5
祈  祷
讃 美 歌  567
説  教  「愛によって歩みなさい」
戒能 信生牧師
祈  祷
讃 美 歌  482
使徒信条  (9341A
献  金  対外献金(奥羽教区江刺教会会堂・牧師館建築を覚えて)
荒井久美子
報  告
頌  栄  46(二度繰り返して)
派遣・祝福
後  奏         
 
【本日の集会】
教会学校礼拝 お話し・戒能牧師、奏楽・内山央絵
礼拝後お茶の会

定例長老会

2016年8月26日金曜日

牧師の日記から(73)「最近読んだ本から」
立花隆『戦争を語る』(文芸春秋)東京大学や立教大学のゼミで学生たちと取り組んだ「デジタル・ミュージアム 戦争の記憶」から、著者の家族の歴史を取り上げたもの。長崎で生まれ(父上が活水女学院の教員だった)、その後北京の日本人学校の教師として中国に移り住み、敗戦後の混乱の中を引き揚げて来るまでの家族の歩みを取り上げている。先々週の信徒講壇で教会員の荒井久美子さんが「大連からの脱出」を紹介されたが、比較的治安のよかった北京からの引き揚げの体験が、当時5歳であった隆少年の断片的な記憶、兄弟たちの記憶、そしてなにより母親の記憶が縒り合されている。私の母も、戦後、台湾から二人の幼い娘と共に身一つで引き揚げて来たが、そのときの経験や記憶を記録にまとめておかなかったことを今さらながら悔やんでいる。
鶴見俊輔『昭和を語る』(晶文社)司馬遼太郎、都留重人、羽仁五郎、開高健などと語り合った古い対談録を再編集したもの。これまでほとんど見逃しているものばかりで、興味深い。特に面白かったのは、羽仁五郎が自分の歴史学の動機を説明して、「愛する女性(羽仁もと子のこと)のキリスト教信仰と対決しなければならなかったのだな」と説明しているくだり。かたや鶴見さんの夫人・横山貞子さんもまたクリスチャンなので、思わずニヤリとした。
渡辺京二『さらば、政治の世界よ 旅の仲間へ』(晶文社)羊子が父の日にプレゼントしてくれた本。名著『逝きし世の面影』の著者が、熊本に在住し石牟礼道子さんの介護を担われていることは聞き知っていたが、その肉声に触れる想いがした。保守や革新という分け方ではない、生活に根差した思想の言葉を紡ぎだそうとする姿勢に深い感銘を受けた。
山口智美・他『海を渡る慰安婦問題 右派の歴史戦を問う』(岩波書店)以前、雑誌『世界』に元外交官の東郷和彦氏が国内の慰安婦問題についての右派の議論は、国際社会では全く通用しないと紹介していた。そのような欧米の観方に対して、歴史修正主義に立つ論者たちが、盛んに国際キャンペーンを展開している事実を、この本で初めて知った。昨年暮れの安部政権による慰安婦問題についての「日韓合意」の今後に改めて注目させられる。

トマス・ホッブズ(高野清弘訳)『法の原理』(行路社)古くからの友人である政治学者高野清弘さんが、甲南大学を退職し、ライフワークであったホッブズの翻訳を完成して送ってくれた。昨年、ギリシア語の発音について問い合わせがあって調べて知らせたが、この仕事だったのだ。政治学の祖とされるホッブズの議論は難解で私には歯が立たないが、「人間は人間に対して狼だ」という認識のもとに、自然法と政治的な法の原理を描いているようだ。このように、「最近読んだ本」と言っても、ところどころ拾い読みをしたものも含まれているのだ。(戒能信生)

2016年8月21日日曜日

2016年8月28日 午前10時30分
聖霊降臨節第16主日礼拝(No22
     司式 茨木 啓子
    奏  黙 想       奏楽 釜坂由理子
招  詞  イザヤ書43・1(93-1-5
讃 美 歌  58 
主の祈り  (93-5A) 
交読詩篇  詩編75・1~11
讃 美 歌  94
聖書朗読  創世記3143321
祈  祷
讃 美 歌  537
説  教  「境界線にて」
戒能 信生牧師
祈  祷
讃 美 歌  226
使徒信条  (9341A
献  金             橋本 茂
報  告
頌  栄  42-1(二度繰り返して)
派遣・祝福
後  奏         
 
【本日の集会】
教会学校礼拝(夏休み)
礼拝後熊本地震救援報告会(光永尚生さん=日本YMCA同盟職員)
お茶の会
週報等発送作業

受洗準備会(東博昭)

2016年8月19日金曜日

牧師の日記から(72
8月14日(日)この日の千代田教会の礼拝は信徒講壇で、荒井久美子さんが担当してくれた。私は、以前からの約束で、弓町本郷教会の礼拝説教と講演のため出かける。弓町本郷教会は、海老名弾正が創立し、吉野作造が所属した歴史のある教会。礼拝後、「戦争責任告白と教会の課題」というテーマで約1時間の講演をする。100名ほどの参加者が熱心に聞いてくれた。午後帰宅してから、荒井久美子さんの信徒講壇「大連からの脱出」の録音テープを聴く。ソ連軍支配下の大連から蒋介石軍支配地域に脱出し、そこから日本に引き揚げるという道筋で、こういうケースがあったことを初めて知った。荒井さんのご家族やお孫さんたちも礼拝に出席して、お祖母ちゃんの証言を聴くことができ、よい機会になった。夜、長男の嘉信が泊めてくれとやって来る。新宿で飲んで、明日が早いからだという。テレビで女子マラソンの放送を見て、「世界陸上か何か?」と聞く。リオのオリンピックのことを知らないのだ。IT関連の仕事に追われるサラリーマンはこんなものかと改めて驚いた。
15日(月)朝7時からの千鳥ヶ淵戦没者墓苑での平和祈祷会に参加。旧知の人たちと一年ぶりに顔を合わせる。しかし常連の人で顔を見かけない人がいると、健康のことを案じてしまう。お互いそういう年齢なのだ。帰宅して10時半から東博昭さんの受洗準備会。マタイ福音書の「山上の説教」を少しずつ読んでいる。9月の長老会で受洗試問会をして、洗礼式ということになりそうだ。午後、江古田斎場に出かけ、ご遺族と齋藤晃子さんの告別式の打ち合わせ。野口倢司さんも晃子さんの遺影を現像して持って来てくれた。
16日(火)この日は一日在宅して、書斎で仕事。台風が接近して、断続的に雨が降る。8月の終りに同志社神学協議会で二つの講演をしなければならないので、その準備も並行して手をつけねばならない。『信濃毎日』の記者から連絡があり、私が預かっている戦時下に弾圧されたホーリネス教会の池田政一牧師の資料についての記事が掲載されたことを伝えて来た。9月に教団宣教研究所への寄贈式を行うのだが、それも取材したいとのこと。
17日(水)聖書を学ぶ会はお休み。斎藤晃子さんの告別式プログラムの印刷や、葬儀説教の準備など。晃子さんの人となりについて、太田牧師や親しくしていた教会員・お友だちにも電話をして取材。晃子さんは、あまりご自分のことを話す人ではなかったので、告別式の奨励の準備に手間取る。
18日(木)午前中から西早稲田のキリスト教会館に行き、NCAの発送作業の準備。午後帰宅し、準備をして、6時から江古田斎場で斎藤晃子さんの葬儀前夜式に臨む。台風は去ったが、時折激しい雨が降る。

19日(金)朝10時から斎藤晃子さんの告別式・火葬に立ち会う。参列者はあまり多くなかったが、斎場がすべて整えてくれて助かった。(戒能信生)

2016年8月14日日曜日

2016年8月21日 午前10時30分
聖霊降臨節第15主日礼拝(No21
     司式 常盤 陽子
    奏  黙 想       奏楽 内山 央絵
招  詞  イザヤ書43・1(93-1-5
讃 美 歌  58 
主の祈り  (93-5A) 
交読詩篇  詩編74・1~23(着席のまま)
讃 美 歌  514
聖書朗読  出エジプト記131722
エフェソ書4・7-16
祈  祷
讃 美 歌  523
信徒講壇  「それぞれの使命」
戒能 信生牧師
祈  祷
讃 美 歌  528
使徒信条  (9341A
献  金            萩原 好子
報  告
頌  栄  42-1(二度繰り返して)
派遣・祝福
後  奏         
 
【本日の集会】
教会学校礼拝(お休み)
礼拝後、故・鈴木三郎記念会、なるべく多くの方がご参加ください。



2016年8月12日金曜日

牧師の日記から(71)「最近読んだ本から」
J.M.クッツェー『イエスの幼子時代』(早川書房)著者は南アフリカの作家でノーベル文学賞受賞者。この人の小説を読んだことがなかったのだが、表題に惹かれて手に取った。一種のSF小説で、大災害を生き残った人々の未来社会において、5歳の男の子に振り廻される大人たちの姿を淡々と描いている。過去を失いすべてが平準化された理想社会が、必ずしもバラ色ではないというイメージが展開されて、奇妙な不気味さがある。つまり未来社会に幼子イエスが現われたとき、それは何を意味するかを描いているが、福音書の寓話としてどのような射程をもっているのか、私には読み取れなかった。イエスの少年時代を取り上げる続編が刊行予定とのこと、それに期待しよう。
佐々木マキ・大橋歩・和田誠・安西水丸『村上春樹とイラストレーター』(ナナロク社)ちひろ美術館が、村上春樹の小説やエッセーの装丁・イラストを特別展示している。羊子が観に行って面白かったからと、それを収録した小さな本を買って来てくれた。世界中に愛読者がいる村上春樹の小説が、今後も古典として生き残るのかどうかは分らない。しかしその不思議な魅力が、これらのイラストの力にも預かっていることに改めて気づかされた。
滝澤克彦『越境する宗教 モンゴルの福音派』(新洗社)社会主義政権崩壊後のモンゴルで、キリスト教が、それも福音派が非常な勢いで伸びているという。体制崩壊後の社会的混乱と精神的空洞がその背景にあると一般に考えられて来たが、この現象について宗教社会学的な分析を試みた専門的な研究書(サントリー学芸賞受賞)。この国の敗戦直後のキリスト教ブーム、あるいは現代中国のキリスト教の興勢、さらにアフリカや南米などの各地でペンテコステ派が大きな勢力になりつつある現象を考えるための格好の参考書。ただ、学術書であるためか、難解で読みにくいのが難点ではある。
細川貂々『ツレがうつになりまして。』(幻冬舎)IT関係のサラリーマンである夫が鬱病になり、仕事ができなくなって退職する。それからの闘病生活のてんやわんやを、イラストレーターである妻がユーモラスに描いたマンガ。これが鬱病の入門書として出色の出来栄えで、不思議な癒し効果がある。鬱病に苦しむ人々やそのご家族に是非一読を勧めたいと思った。

大串潤児『銃後の民衆経験 地域における翼賛運動』(岩波書店)戦時下研究でこれまで手薄とされて来たのは、庶民や民衆の日常生活からのアプローチである。本書は「銃後」を担った(担わされた)人々の集団意識や戦意が、戦局の変化に伴ってどのように変遷して行ったかに注目して分析している。「戦争は何故起こったのか」という切り口ではなく、「戦争が始まったらどう振る舞ったらいいのか」という問題意識から、地方都市や農村における戦時下の民衆の具体的な実相を抉り出そうとしている。(戒能信生)

2016年8月7日日曜日

2016年8月14日 午前10時30分
聖霊降臨節第14主日礼拝(No20
     司式 野口 倢司
    奏  黙 想       奏楽 釜坂由理子
招  詞  イザヤ書43・1(93-1-5
讃 美 歌  58 
主の祈り  (93-5A) 
交読詩篇  詩編73・1~28(着席のまま)
讃 美 歌  533
聖書朗読  詩編121・1-8
祈  祷
讃 美 歌  155
信徒講壇  「大連からの脱出」
荒井久美子
祈  祷
讃 美 歌  518
使徒信条  (9341A
献  金            野口 洋子
報  告
頌  栄  42-1(二度繰り返して)
派遣・祝福
後  奏         
 
【本日の集会】
教会学校礼拝(お休み)
礼拝後、お茶の会

戒能牧師は弓町本郷教会の礼拝説教と平和祈念会の講演のために出張です)

2016年8月4日木曜日

牧師の日記から(70)「最近読んだ本から」
常盤新平『翻訳出版編集後記』(幻戯書房)教会員の常盤陽子さんが新平さんの没後に出版された著書を何冊か送ってくれた。本書は早川書房の編集者時代の想い出を、当時の翻訳事情やゴシップ、楽屋裏まで披瀝したもの。私自身が愛読して来た海外ミステリーやノンフィクションがこのようにして翻訳出版されたのかと興味深く読んだ。ところで、神学書や注解書の翻訳が拙劣で、若い時期散々悩まされた。どうしても理解できないので、致し方なく原著を手に入れて読んでみたら、何のことはない単純な誤訳だった。訳者が十分理解できないままに翻訳していることが手に取るように判って驚いたことがある。最近はそうでもないが、若い研究者に下訳をさせて、ろくに校訂しないままの翻訳が多かったのだ。それに比べて、この国のミステリー小説の翻訳の見事さは特筆すべきではないか。その背後に常盤新平さんたちパイオニアの苦労があったことを改めて知った。
常盤新平『私の「ニューヨーカー」グラフィティ』(幻戯書房)著者が愛読していたアメリカの週刊誌『ニューヨーカー』の記事の紹介に始まり、そこから見えてくるアメリカ社会の断面を描いたエッセー集。どこかで読んだことがあると思って初出一覧を見ると、『暮らしの手帖』に連載していたものだったようだ。この中で、「自分の文章を妻や娘たちは読まない」というくだりがあってニヤッとさせられた。我が家でも、私の書いた論文などを直子さんや子どもたちは読まない。最初の内はせっかく苦労して書いたのだからと見せていたのだが、最近は諦めている。時折、校正を手伝ってもらったりはするのだが、感想などを聞くことは自己規制している。
岩本二郎『セメント公害トマレ』『写真集 セメント公害トマレ1974-1978』(自費出版)隠退教師の岩本牧師が送ってくれた。1970年代、西中国教区の美祢教会の牧師だった頃、地域にあるセメント工場の公害問題に市民運動として取り組んだドキュメント。牧師を隠退し、胃ガンを宣告されて、自分に出来ることをしておかねばと考えてまとめたという。企業城下町で、研究者たちの支援を受けながら、地道にコツコツと積み重ねた市民運動の貴重な記録になっている。ただ、この中に教会がほとんど出て来ない。市民運動として敢えてキリスト教色を出さないことは理解できるが、このような運動に牧師が関わった際の教会員の反応や軋轢について知りたいと思った。

吉本隆明『なぜ、猫とつきあうのか』(講談社学術文庫)吉本さんの書いたものはほとんど目を通してきたはずだが、これは見逃していた。近所の野良猫との付き合いなど、いかにも吉本さんらしい応対で、楽しく読んだ。千代田教会にも野良猫が出没し、いろいろ面倒なこともあるが、基本的には自由にさせている。最近は警戒心が薄れて来たのか逃げなくなった。(戒能信生)