2025年8月31日日曜日

 

2025年9月7日 午前10時30分

聖霊降臨節第14主日礼拝(No.19)

               司式 大森 意索

黙  想         奏楽 釜坂由理子

招  詞  93-1-53

讃 美 歌  4

主の祈り  (93-5A) 

交読詩編  25・1-22

讃 美 歌  411

聖書朗読  ハバクク書3・17-18

ヤコブ書4・11-12

祈  祷

讃 美 歌  565

説  教  「裁いてはならない」

                戒能 信生牧師

讃 美 歌  528

使徒信条 (9341A

献  金  対外献金「北支区ワンドロップ献金のために」     高岸 泰子

報  告  

頌  栄  26

派遣・祝福

後  奏 

 

【本日の集会】

・教会学校 お話し・大森意索伝道師、奏楽・戒能直子

・礼拝後、持ち寄り昼食会(ホール)

・定例長老会

礼拝堂の後ろに飲み物が用意されています。水分補給にご利用ください。

 

2025年8月30日土曜日

 

子育てカフェ通信④

 8月も後半になりました。ときどきスコールのような雷雨があり、日本も最近はまるで亜熱帯気候のようになりました。暑さのなかで、セミが鳴く季節ですが、今年は梅雨の雨が少なかったためか、セミも例年よりも少ないそうです。私は毎月1回、岡山に行っておりますが、今回は岡山の教会について説明することにしました。

岡山御津キリスト教会という名称で、単立の教会です。私の両親は、もとは千代田教会から近い市ヶ谷の場所にあった、日本基督教会の市ヶ谷教会に属していました。市ヶ谷教会は東京大空襲で焼けてしまい、戦後は池袋西教会に移行しました。で、戦前に市ヶ谷教会で結婚した両親は、父親が中国の宣教師となったため、一緒に中国に渡ったようです。しかし、中国人の中に入っての宣教でしたので、かなり過酷だったようで母は体調を崩し、一人帰国しました。父は中国で敗戦を迎え、その後帰国しますが、中国への宣教と謝罪の思いが強かったため、何とか中国に戻りたいと願っていたようです。しかし中国は混乱の後共産党支配となり、宣教師を受け入れる状況にはありませんでした。このため戦後は、父は北海道や東京、岡山と移って、大陸への足掛かりはないかと私の小さい頃は台湾を行き来していたようです。

同じく戦後、中国での宣教が困難となっていたため、中国から岡山の地で宣教をすることになった、スウェーデンミッションの日本聖約キリスト教団から誘われて、岡山の地に教会を作ることに協力することになったのでした。こうして1952年に岡山御津キリスト教会ができたのでした。父は中国でもそうだったのだと思いますが、教会はその地域の人たちがつくっていくものであり、宣教師はあくまでお手伝いという意識が強かったのでしょう。詳しい事情はわかりませんが、おそらくスウェーデンミッションの宣教師と何らかの対立があり、その教団から出る形で単立教会となったのでした。私は知りませんでしたが、姉によりますと、このことで、我が家の生活がガラッと変わったとのことです。

こういう経緯で、岡山御津キリスト教会は73年前にでき、教会員は数名の小さな教会ですが、私も月1回礼拝に出席することにしています。そして、これからも地方の教会の視点ももって伝道師としてやっていきたいと思っています。(大森意索)        

2025年8月24日日曜日

 

2025年8月31日 午前10時30分

聖霊降臨節第13主日礼拝(No.18)

               司式 石井摩耶子

黙  想         奏楽 向山 康子

招  詞  93-1-53

讃 美 歌  5

主の祈り  (93-5A) 

交読詩編  24・1-10

讃 美 歌  218

聖書朗読  コヘレトの言葉11・1-8

祈  祷

讃 美 歌  416

信徒講壇  「朝に種を蒔け」

               戒能 信生牧師

讃 美 歌  549

使徒信条 (9341A

献  金              内山 央絵

報  告  

頌  栄  50

派遣・祝福

後  奏 

 

【本日の集会】

・教会学校(夏休み)

・礼拝後、入門の会「十戒⑧」戒能牧師

・お茶の会

・週報発送作業

礼拝堂の後ろに飲み物が用意されています。水分補給にご利用ください。

・大森意索伝道師は、本日、岡山御津キリスト教会の講壇奉仕で出かけています。

2025年8月23日土曜日

 

牧師の日記から(531)「最近読んだ本の紹介」

 先週、渡辺一夫の『敗戦日記』を紹介し、昭和20316日の日記から次の一節を引用した。「知識人の弱さ、あるいは卑劣さは致命的であった。日本に真の知識人は存在しないと思わせる。知識人は、考える自由と思想の完全性を守るために、強く、かつ勇敢でなければならない。」

それで思い出したのは、堀豊彦先生が斎藤勇先生を追憶した短い文章。堀豊彦は東大法学部教授、斎藤勇はこの国の英文学の草分けの一人で、いずれも篤実なクリスチャンだった。太平洋戦争の末期近く、東京帝国大学文学部教授会の席上で、和辻哲郎と斎藤勇両教授が対立したエピソードについての証言。

「故和辻哲郎教授がわが国の聖戦を主張して英米畜などに負けてたまるかと、声高らかに論ぜられた。これに対して、斎藤勇先生が戦争は悪い、戦争に聖戦などなし、彼我に五分五分の言分がある。特に一方的に、しかも人間の尊厳を汚すような米英畜などという悪罵は慎むべきであると、述べられた。すると和辻教授は更に声を励まして、斎藤先生を非国民だとして極め付けられ教授会の席で罵倒された。斎藤先生は堅く黙して剛毅なる沈黙を以て対応されたという。同席の教授たちの反応については不肖である。」(東大学生基督教青年会『会報』78号)

和辻哲郎ほどの知識人にして戦時下の実情はこうだったのだ。それに対し斎藤勇先生の姿勢は断固たるものだった。

それでまた思い出したのが、戦後間もない頃、矢内原忠雄先生のある講演会での発言。矢内原の講演を聞いた聴衆の一人(牧師だったと伝えられる)が「留学して海外の事情に詳しい矢内原先生のような専門家は戦争の実相を見抜けたかもしれないが、我々素人には本当のことは分からなかった」と感想を述べた。それに対して矢内原はこう応えた。「東京大学には、理系・文系を問わず、それこそ海外に留学したその道の専門家たちが何人もいました。しかしその人たちも見抜けなかったのです。しかし私にはこの聖書がありました。聖書を通して、あの戦争の本当の姿を見抜くことができたのです。」(この発言は伝承で、矢内原全集などを探しても見つかりませんでした。)知識人の限界と聖書の信仰の重要さを教えられます。(戒能信生)

2025年8月17日日曜日

 

2025年8月23日 午前10時30分

聖霊降臨節第12主日礼拝(No.17)

               司式 石井 寛治

黙  想         奏楽 内山  央絵

招  詞  93-1-53

讃 美 歌  5

主の祈り  (93-5A) 

交読詩編  23・1-

讃 美 歌  467

聖書朗読  フィリピ書1・27-30

祈  祷

讃 美 歌  516

信徒講壇  「恵みとして」

               大森 意索伝道師

讃 美 歌  469

使徒信条 (9341A

献  金              内山 央絵

報  告  

頌  栄  50

派遣・祝福

後  奏 

 

【本日の集会】

・教会学校(夏休み)

・礼拝後、お茶の会

礼拝堂の後ろに飲み物が用意されています。水分補給にご利用ください。

・戒能信生牧師は、本日、巣鴨ときわ教会で講壇と講演の奉仕で出かけています。

 

 

2025年8月16日土曜日

 

牧師の日記から(530)「最近読んだ本の紹介」

 石垣りん『新版 ユーモアの鎖国』(ちくま文庫)石垣りんの最初のエッセー集が文庫本で復刊されたので目を通した。詩人の日常の中から、詩がどのように生まれるかを垣間見ることができる。例えば職場新聞に掲載された戦没者の名簿に、次のような詩を添える「弔詞 ……私は呼びかける/西脇さん/永町さん/みんな、ここへ戻って下さい/どのようにして戦争にまきこまれ/どのようにして死なねばならなかったか/語ってください/戦争の記憶が遠ざかるとき戦争がまた/わたしたちに近づく/そうでなければよい/八月十五日/眠っているのは私たち/苦しみにさめているのはあなたたち/行かないで下さい皆さん、どうかここに居て下さい」

 あるいは四日市の公害を取材して、次のように記す。「立札 『高圧ガスがうまっています/異常があったらデンワを下さい』/人家の塀にはられた合成ゴム会社の木の札/矢印の左の方向に歩いて行ったら/遊園地がありました/異常があるまで遊んでいてほんとうにいいのでしょうか?」

 渡辺一夫『敗戦日記』(ちくま学芸文庫)フランス文学者渡辺一夫が戦時下に密かに書き綴ったフランス語交じりの日記が、串田孫一によって翻刻された。東京大空襲の翌日311日から始まり、815日で終わっている。冒頭にダンテのLasciate ogni eperanza「すべて望みを捨てよ」が引かれている。以下、考えさせられた記述を引用してみよう。「もし竹槍を取ることを強要されたら、行けという所にどこにでも行く。しかし決してアメリカ人は殺さぬ。進んで捕虜になろう。国民のorgueil(高慢)を増長せしめた人々を呪う。すべての不幸はこれに発する」(312日)。「知識人の弱さ、あるいは卑劣さは致命的であった。日本に真の知識人は存在しないと思わせる。知識人は、考える自由と思想の完全性を守るために、強く、かつ勇敢でなければならない」(315日)。「まさに崩壊しようとしている祖国、だが存続しなければならぬ祖国のために。生きのびることが僕の義務だと思う。知識人としては無に等しい僕でも、将来の日本にはきっと役立つ。ひどい過ちを犯し、その償いをしている今の日本を唾棄憎悪しているからだ。」(戒能信生)

 

牧師の日記から(531)「最近読んだ本の紹介」

 先週、渡辺一夫の『敗戦日記』を紹介し、316日の日記から次の一節を引用した。「知識人の弱さ、あるいは卑劣さは致命的であった。日本に真の知識人は存在しないと思わせる。知識人は、考える自由と思想の完全性を守るために、強く、かつ勇敢でなければならない。」

それで思い出したのは、堀豊彦先生が『斎藤勇先生追慕』(東京大学学生基督教青年会『会報』78号)に寄せた文章。堀豊彦は、東大法学部教授、斎藤勇はこの国の英文学の草分けの一人、いずれも篤実なクリスチャンだった。太平洋戦争の末期近く、東京帝国大学文学部教授会の席上で、和辻哲郎、斎藤勇両教授が対立したエピソードを堀豊彦が次のように紹介している。

「故和辻哲郎教授がわが国の聖戦を主張して英米畜などに負けてたまるかと、声高らかに論ぜられた。これに対して、斎藤勇先生が戦争は悪い、戦争に聖戦などなし、彼我に五分五分の言分がある。特に一方的に、しかも人間の尊厳を汚すような米英畜などという悪罵は慎むべきであると、述べられた。すると和辻教授は更に声を励まして、斎藤先生を非国民だとして極め付けられ教授会の席で罵倒された。斎藤先生は堅く黙して剛毅なる沈黙を以て対応されたという。同席の教授たちの反応については不肖である。」

和辻哲郎ほどの知識人においても戦時下の実情はこうだったのだ。それに対し斎藤勇先生の姿勢は断固たるものだった。それでまた思い出したのが、戦後間もない頃、矢内原忠雄のある講演会での発言。矢内原の講演を聞いた聴衆が「留学して海外の事情に詳しい矢内原先生たちは戦争の実相を見抜けたかもしれないが、我々庶民には本当のことは分からなかった」と述べた。それに対して矢内原はこう応えたと言うのだ。「東京大学には、理系・文系を問わず、それこそ海外に留学したその道の専門家たちが何人もいました。しかしその人たちも見抜けなかったのです。しかし私にはこの聖書がありました。聖書を通して、あの戦争の本当の姿を見抜くことができたのです。」(この発言は伝承で、矢内原全集などを探しても見つかりませんでした。)知識人の限界と聖書の信仰の重要さを教えられる。(戒能信生)