2015年8月22日土曜日

牧師の日記から⑳「大連日本基督教会月報『霊光』のこと」
先日、教会員の永松信行さんが、大連日本基督教会の会報『霊光』のバックナンバーを持って来てくれました。永松さんが『霊光』を保存しているとお聞きしたので、お貸し頂きたいとお願いしていたのです。4冊のファイルに綴じられた『霊光』を見て驚きました。昭和69月の創刊号から、昭和206月発行の第159号まですべて揃っているのです。戦前の外地邦人教会の記録は、他にはほとんど残っていないので、これはきわめて貴重な第一次資料です。
古い教会員の方はよくご存知ですが、大連日本基督教会は、明治37年、日露戦争に際して大連(その当時はまだ「青泥窪」と呼ばれていた)に上陸したキリスト者軍人日疋信亮陸軍二等主計正(後の陸軍主計少将、満州伝道会会長)が、部下のキリスト者たちと共に陸軍倉庫に集まり、聖書を読み祈りを共にしたことに端を発するとされています。宣教師T.C.ウィンの協力を得て、明治4098日に最初の教会総会が開かれたので、この日が創立記念日とされ、その年の1215日に大連市西通30番地に壮麗な教会堂が献堂されています。戦前の外地邦人教会の中でも、この大連日本基督教会(通称「西広場教会」)は、教会員数600名を数え、礼拝出席者も200名を越える有数の教会でした。
『霊光』の発行人は、創刊からずっと柴田博陽(基督教慈恵病院理事長、現在の教会員橋本悠久子さんの祖父)、編集人は、当初は中村繁治(満州電業勤務、ソ連抑留を経て、戦後は溝の口教会牧師)、途中から野津長三郎(満鉄勤務)に代わり、さらに昭和134月(79号)以降は白井慶吉牧師が担っています。

大連は、満州の入り口にあたる港湾都市で、南満州鉄道の始発駅でもありましたので、この『霊光』誌の「個人消息」の欄を見るだけでも、満州に出入りするキリスト者たちの動向をつぶさに追うことができます。この貴重な資料を先ず画像データに取り込み(野口倢司さんに依頼しています)、それから時間をかけてじっくり読み込んで、戦前の邦人教会の実情やその信仰理解の特質、さらに教会員たちの心情やメンタリティについても学んでみたいと考えています。大きな課題を与えられた思いです。(戒能信生)

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