2025年12月7日日曜日

 

2025年12月14日 午前10時30分

待降節第3主日礼拝(No.33)

                司式 戒能 信生

黙  想         奏楽 内山 央絵

招  詞  93-1-11

讃 美 歌  242(3節のみ)

主の祈り  (93-5A) 

交読詩編  37・23-40

讃 美 歌  175

聖書朗読  フィリピ書3・1-11

祈  祷

讃 美 歌  231

説  教  「主にあって、光のうちに」

               大森意索伝道師

讃 美 歌  39

使徒信条 (9341A

献  金              梅本 順子

報  告  

頌  栄  91

派遣・祝福

後  奏 

 

【本日の集会】

・教会学校  お話し・戒能牧師、奏楽・内山央絵

・礼拝後「私の愛唱聖句」石井摩耶子

・(茨木啓子さん訪問)

・礼拝堂の後ろにお茶が用意されています。水

 分補給にご利用ください。

2025年12月6日土曜日

牧師の日記から(542)「最近読んだ本の紹介」

 川上未映子『きみは赤ちゃん』(文春文庫)著者は、芥川賞を初め多数の文芸賞を軒並み受賞している若い小説家。村上春樹との共著『みみずくは黄昏に飛びたつ』を読んだだけだが、その鋭いセンスと感覚に驚かされた。その作家が35歳で初めて出産し、その経験の一部始終をリアルタイムで報告したもの。出産に関わるすべてのことが当然のことながら女性の側からありのままに描かれる。その根底に貫かれるのは、夫(あるいはすべての男性)の無知と無理解に対する痛烈な非難と怒り。読んでいて、居たたまれなくなるほど。直子さんが3人の子どもを出産してくれたが、夫であり父親である私は、ただ側にいただけで、産む性の側の痛みや辛さのことを全く理解していなかったことを思い知らされる。つわり、マタニティーブルー、分娩の壮絶な苦しみ、産後クライシス、そして育児……。例えば、夜泣きする新生児に3時間おきに母乳を与えながら、傍らで鼾をかいて寝ている夫に瞬間的に殺意を覚えるくだりなどは、実に身につまされた。今さら遅いが、改めて直子さんに感謝する。

 又吉直樹・ヨシタケシンスケ『本でした』(ポプラ社)お笑い芸人・又吉直樹が芥川賞を受賞したので話題になったが、その小説は読んでいない。しかし絵本作家として国際的に活躍しているヨシタケシンスケとの共著だというので目を通した。ある街に住み付いた若者二人が「どんなものでも本に戻します」という不思議な看板を出す。無くした本、忘れた本、壊れた本の表題でも、その一部でも判れば復元するというのだ。町の住民が面白がって、次々に注文したものが、楽しいイラスト付きで紹介される。子どもも読めるし、大人でもいろいろ考えさせられる。最後に、二人の若者のインチキがバレるが、それ以降、その街からたくさんの作家が生まれたというファンタジー。

 森本あんり『キリスト教でたどるアメリカ史』(角川ソフィア文庫)アメリカ史に関する書籍は多数あるが、キリスト教との関連で取り上げたものは少ない。著者の森本あんりさんが、ピルグリムの渡航から始めて、大覚醒、独立戦争、南北戦争、大恐慌、第二次大戦後の膨張するアメリカ、現在のトランプ現象までをキリスト教を軸にして解説してくれる。(戒能信生) 

2025年12月7日 午前10時30分

待降節第2主日礼拝(No.32)

                司式 大森 意索

黙  想         奏楽 釜坂由理子

招  詞  93-1-11

讃 美 歌  242(2節のみ)

主の祈り  (93-5A) 

交読詩編  37・1-22

讃 美 歌  240

聖書朗読  エレミヤ書36・1-3

ヨハネ福音書2・1-11

祈  祷

讃 美 歌  286

説  教  「水を汲んだ働き人」

                戒能信生牧師

讃 美 歌  532

使徒信条 (9341A

献  金  対外献金「日本基督教婦人矯風会の働きを覚えて」   梅本 和義

報  告  

頌  栄  91

派遣・祝福

後  奏 

 

【本日の集会】

・教会学校  お話し・大森意索、奏楽・戒能直子

・礼拝後 アドベント全体祈祷会(司会・大森伝道師)

・持ち寄りランチ(ホール)

・招聘委員会、・定例長老会

・礼拝堂の後ろにお茶が用意されています。水

 分補給にご利用ください。 

 

「子育て相談カフェ通信」⑦大森意索 

今年も残すところ1ヶ月ちょっととなり、もうすぐアドべントとなります。4月から子育て相談カフェを開始しましたが、今のところ子どもの相談はなく、ある意味ホッとしています。実は8月9月と自分の仕事としての相談が、なかなが大変で、私自身が、知らず知らずのうちに疲弊していました。

もともと人と話すのは嫌いではないものの、結構気を使う割にはうっかりしていることもある性格なので、対人関係は苦手と思っていました。そんな私が1時間近く、時には1時間半、話を聞き、対応することにちょっと疲れてしまったのです。特に両親二人の意見がぶつかる場面では、1時間半でも足りず、かなり難しい状況となります。その上、何の解決にもならない、時間の無駄だと言われることもあり、二重に疲れる日々でした。そうした自分ではどうすることも出来ない課題に向き合っていることは学びにはなります。が、最近は疲れ過ぎてはいけないと、どんな場合も1時間は超えないように、両親の意見が違う場合には別々に対応するようにしています。それでも時には1人の対応でどっと疲れてしまいます。そんな時もありつつ、ちゃくちゃくと(?)子育て相談カフェの準備をしています。

さて、5月からフィリピの信徒への手紙の講解(後悔)説教を始めました。準備では、いろいろと学ぶことが多く、いつもギリギリまでやっているわりには、後で考えると、バタバタしていて言葉が多すぎるなあと気付かされます。先日、数名の牧師に説教原稿の文字数をお聞きしたとこところ、私の文字数が多いことに気がつきました。余分な言葉が多過ぎるのではないかと反省することしきりです。それに、「言葉、ことば」の難しさに戸惑うばかりの日々です。そんな日々の中で、あっという間に次の説教の用意が必要になって、いつもあたふたとしています。ただ、一人ではそこまでは聖書に向き合ってこなかったのだと気付かされましたし、準備をすることで、言葉に向き合うことになりました。これも、この教会で伝道師をさせていただいたおかげだと思います。そういう促しのために、こうして人前で話すのが苦手な私が、押し出されているのだろうと思わされる、今日この頃です。