2015年6月13日土曜日

牧師の日記から⑩
12日(金)の午前中、ずいぶん久しぶりに国会図書館に行きました。ずっと以前何度か利用したことはあるのですが、まだ新館ができる前で、その利用票も失効しており、新しく登録し直しました。自転車で行こうと思ったのですが、小雨が降っており、やむなく電車で行きましたが、それでも四ツ谷駅から地下鉄で一駅、とても便利です。

実は、6月の終わりに同信伝道会の研修会で、「新島襄のキリスト教受容」について講演することになっており、その準備のための資料が必要だったのです。同信伝道会というのは、同志社大学神学部出身の牧師たちの集まりです。箱根で一泊の研修会が行われ、そこで同志社出身でもなければ、組合教会に全く関わりのない私が、同志社の創立者新島襄について話さねばならない仕儀になってしまったのです。新島襄は、1864年(元治1年)、函館から脱国し、アメリカにわたってキリスト教と出会います。吉田松陰がペリーの艦隊に乗り込んで密出国を企て失敗してから丁度10年後のことです。もちろん江戸幕藩体制の下、鎖国制度と切支丹禁教令があった時代です。つまり脱藩志士の一人であった新島が、1年後、喜望峰回りでボストンに到着した時には、既に神を信じ、キリスト教を受け容れていたと言われています。しかし新島はどのような信仰を抱き、どのようにキリスト教を受容したのか、それが問題です。いろいろな説があります。既に少年時代に江戸で漢訳聖書に触れてキリスト教に関心をもっていたとか、『ロビンソンクルーソー』を読んで神を信じるに至った等と説明されて来ました。しかし私の仮説では、新島はボストン上陸後、アメリカで教育を受けるために、一種の「なりすまし」をしたのではないかと推測をしているのです。つまり模倣です。しかし、キリスト教受容の最も典型的なタイプは模倣です。真似をするようにして、形からクリスチャンになることです。しかも新島は、この全面的な受容をその後の生涯貫きます。そこに新島の偉大さと特徴があると私は理解しているのです。国会図書館で、新島が若き日に書いた”Why I departed from Japan”の英文テキストについての北垣宗治先生の考証を調べることができました。他に重要な文献も見つけました。これからも国会図書館を大いに利用しようと考えています。(戒能信生)

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