2017年10月14日土曜日


牧師の日記から(131

 108日(日)主日礼拝。マタイ福音書61921の講解説教「天に宝を積みなさい」。主イエスは、この世の富や豊かさについて明らかに批判的に語っている。典型的には「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだやさしい」(マタイ192324)という言葉。当時のパレスチナでラクダは日常目にすることが出来る最大の動物。そのラクダが針の穴を通るのは不可能であるだけでなく、むしろ滑稽なことだった。それほど金持ちが神の国に入るのは困難だという意味。「貧しき者は幸いなり」と語ったイエスは、金持ちよりも貧乏人に身を寄せている。この箇所の最後に「神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われていることに注意。「兼ね仕えてはならない」という命令ではなく、私たちキリスト者は「神と富とに兼ね仕えることはできない」者とされているというのだ。礼拝後、婦人会例会でルカ福音書2114の「レプタ二つを献げたやもめ」の個所を、鈴木志津恵さんの発題で学ぶ。その後、野口倢司さんの車で、高岸さん、直子さんと一緒に番町教会にバザーの用品を受け取りに行く。その帰り、野口さんに誘われて紀尾井町ガーデン・テラスで一緒に昼食をご馳走になる。

 9日(月)この日は休日で一日のんびりする。夜は人と会う約束があったのだがキャンセルになり、こんなことなら橋本悠久子さんの演奏会に行けばよかった。

 10日(火)午後、思い立って、直子さんと上野の国立博物館に運慶展を観に行く。康慶・運慶・快慶の主な作品がこれだけ並ぶと壮観。しかしこれらの仏像は、個人の作品というよりも、運慶たちが指導する工房集団の存在を前提とする。中でも康慶作「法相六祖座像」や運慶作「重源上人座像」に心を惹かれた。その表情には写実性だけでなく、ルネサンス期のミケランジェロなどの作品にも通じる精神性がある。しかしルネサンスは単に芸術運動としてだけではなく、その後の宗教改革や、さらに啓蒙主義思想への途を拓いたとされる。ところが、運慶たちの彫像技術と精神は不思議にも途絶えてしまい、その後の仏教美術に引き継がれなかった。鎌倉中期以降、法然・親鸞・日蓮といった新しい仏教の勃興と関わるのだろうか。夜は早稲田奉仕園の山口里子さんの新約ゼミに出席。ルカ福音書1320-21「パン種の譬え」を学び、またまた「眼からウロコ」の想いをする。

 11日(水)午前中、聖書を学び祈る会で民数記14章を取り上げる。出エジプトの経験とカナン侵入の出来事の時間差を「荒野の40年」として位置付け、そこに世代交代の物語を想定している。旧約聖書独特の歴史理解と言えるだろう。

12日(木)午後からNCAの連続講座「日本キリスト教史を読む」の5回目で内村鑑三を取り上げる。さらに出席者が多くなり、会場に入りきれないほどで嬉しい悲鳴。この講座のオプショナル・ツアーを計画し、富士見町教会、本郷中央教会、弓町本郷教会をめぐる企画を提案する。夜は東京バプテスト神学校の授業。

13日(金)午前中、会館管理組合委員会。午後帰宅して、来週予定されている二つの読書会と研究会での発題の準備に追われる。(戒能信生)

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