2017年10月28日土曜日


牧師の日記から(133)「最近読んだ本の紹介」

 数年前、賀川豊彦記念松沢資料館から、昭和13年頃、賀川の紹介で茨城県鹿島の結核療養施設白十字会に赴任した医師・末長敏事について調査依頼がありました。手持ちの資料等に当たってみましたが手がかりが得られず、結局分からないと返事しました。ところが今年の7月、森永玲『反戦主義者なる事通告申し上げます/反軍を唱えて消えた結核医末永敏事』(花伝社)が刊行され、驚きをもって読みました。『長崎新聞』の連載を一冊にまとめたもので、島原出身の末長敏事という知られざるキリスト者の生涯を、残された断片的資料や証言から可能な限り追っています。先の調査依頼もこの連載のためだったのです。

末永敏事は明治20年、長崎県の島原半島の医家に生まれ、青山学院在学中に内村鑑三の感化を受けてキリスト者となります。医師を志し、長崎医専を卒業、台湾で医師として働いた後、アメリカに留学。約10年滞在して、結核の病理学的な研究で業績を上げます(後に京都大学から博士号を取得)。帰国後、内村の司式で中島静江と結婚。その後は一時自由学園で教え、故郷の島原で開業しますが、昭和8年に離婚。茨城で開業するも、昭和13年、賀川豊彦の紹介で鹿島の白十字会で働くことになります。その年の10月、国家総動員法による医療関係者能力申告の際、末長は以下の通告を茨城県知事宛に送ります。

「平素所信の自身の立場を明白に致すべきを感じ茲に拙者が反戦主義なる事及軍務を拒絶する旨通告申し上げます。」これによって敏事は、10月6日逮捕。家宅捜査で「小生軍備全廃論者なるが故に陸海軍人団と関係あることを厳しく嫌ふ。次に平民主義者なるが故に特権階級例令は皇室、貴族、富豪等と何等の関係あるを拒絶する」という文書が押収され、さらに周辺捜査で、敏事の次のような言説が確認されたとされています。「日支事変は支那から仕掛けられて居るのではなく日本から仕掛けた侵略戦争である」「現在日本の政治の実権は軍部が握って居る、近衛首相は軍部に乗ぜられて居る、その現はれが日支事変である。軍部の方針は世界侵略を目指して居る」「今次事変の当局発表新聞記事、戦争ニュースは虚偽の報道である。新聞に顕はるる戦死者の状況は戦争目的遂行の為の虚報で我軍の戦死者は発表以上に達して居る」「今度の戦争は東洋平和の為であると言ふて居るが事実は侵略戦争である。戦争は御神意に反する事であるから戦争に賛成することは日本が滅びることに賛成する様なものだ」。こうして末永敏事は陸海軍刑法違反(流言飛語罪)によって禁固3月の判決で収監されます。しかしその後の末長の消息は途絶え、1945年に亡くなったとされているのです。
長崎新聞によるこの調査が始まるまで、末永敏事について、内村研究でも、賀川研究でも一切知られていませんでした。全く忘れられた存在だったのです。しかしそれにしても、「特高月報」による敏事の発言は苛烈で、しかも的確に事態を見抜いていました。これほどの反戦主義者の存在が、その後キリスト教界において全く知られて来なかったこと自体不思議です。(戒能信生)

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