牧師の日記から(532)「最近読んだ本の紹介」
永瀬清子「悲しめる友よ」『流れる髪』(思潮社)先日、オリーブの会で週報のこの欄「読書紹介」について話題になった際、石垣りん、茨木のり子といった女流詩人を取り上げるのが珍しいという指摘があった。私は詩をあまり読まないのだが、この二人の女性詩人だけが例外と答えて、待てよと思い直した。もう一人、永瀬さんの詩を読んできたことを思い出したのだ。永瀬清子さんは、1995年に既に89歳で亡くなっている。私が尊敬していた井上良雄先生が、戦前、文芸評論家として活躍していた頃、「磁場」という同人誌の仲間だった。それもあって永瀬さんの詩集を時折覗いて来たのだった。例えばこういう詩。
「悲しめる友よ
女性は男性よりさきに死んではいけない。
男性より一日でもあとに残って、挫折する彼を見送り、又それを被わなければならない。
男性がひとりあとへ残ったならば誰が彼を十字架からおろし埋葬するであろうか。
聖書にあるとおり女性はその時必要であり、それが女性の大きな仕事だから。
あとへ残って悲しむ女性は、女性の本当の仕事をしているのだ。だから女性は男性よりも弱い者であるとか、理性的でないとか、世間を知らないとか、さまざまに考えられているが、女性はそれにつりこまれる事はない。
これらの事はどこの田舎の老婆でも知っている事であり、女子大学で教えないだけなのだ。」
この詩が書かれたのは、1970年代で、永瀬さん自身が夫を見送り、一人息子を亡くした辛い時期だった。少し後で『関白宣言』(さだまさし)がヒットして、そのもとになったのではないかとフェミニズムの観点から批判されたこともあった。しかしこの詩を紹介した茨木のり子も指摘しているように、永瀬さんは戦前から厳しい弾圧や迫害の中で粘り強く詩を書き続け、だれよりも女性の自立を主張して来た人だ。その上で、女性は挫折した弱い男を十字架から降ろして埋葬する仕事を担わなければならないと自らのこととして書いているのだ。(戒能信生)
女流詩人を取り上げるのが珍しいという指摘、なぜ珍しいのでしょうか。「女流詩人」「女性詩人」という言葉は一般的なのでしょうか。
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