2018年1月20日土曜日


牧師の日記から(145

114日(日)主日礼拝。マタイ福音書71320の講解説教「狭い門から入れ」。この国では難関校受験を指す「狭き門」という言葉が、本来はどのような意味で主イエスによって語られたのだろうか。その直前の言葉「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という教えが、それを指し示している。この言葉を律法的としてではなく、喜びの福音として聞くとき、初めて「狭い門から入る」ことが私たちの使命となるのだろう。礼拝後、婦人会の例会で、創造物語のエバについて橋本悠久子さんの発題をもとに話し合う。

15日(月)夜は日本聖書神学校の授業。鈴木正久についての受講生たちのリーディング・レポート。ようやく現代の日本語で読める内容なので、学生たちの発題も熱を帯びてくる。

16日(火)午前中は神学読書会。深井智朗さんの『プロテスタンティズム』(中公新書)の前半を武蔵野教会の佐々木潤牧師の丁寧な発題で読む。出席者は牧師6名、信徒4名の計10名。『平和ネット』の連載コラムの原稿書き。戦時下の朝鮮人教会への弾圧に紹介。京都や神戸、名古屋等で、在日朝鮮人の牧師や信徒たちが多数検挙されている。いずれも朝鮮民族の自立を目指すべきと主張したからだという。ただ人名などの矛盾点があり、「特高資料」そのものに当たらねばならない。マイノリティ・センターにもなく、最終的には国会図書館に行って確認しなければならないようだ。しかし改めて治安維持法の問題を考えさせられる。共謀罪(テロ特措法)が同じような役割を果たすのではないだろうか。

17日(水)午前中は聖書を学ぶ会で申命記2930章を取り上げる。約束の地に入る直前のモアブ契約という形をとりながら、はるか後の時代のイスラエルの滅亡と捕囚についての歴史解釈を展開している。「40年の間、あなたたちの衣服は擦り切れず、足に履いたサンダルも擦り減らなかった」(294)という言葉に、穴の開いた靴下しかなかった時代のことを思い出した。夜は、日本聖書神学校の補講。井上良雄先生の生涯と信仰を取り上げる。このあたりになると、自分自身の体験と重なっていて客観的な説明が困難であることを痛感する。

18日(木)教会の駐車場裏の建物の取り壊し工事で地響きがする。午後、自転車でキリスト教会館に行き、NCAの事務仕事。夜は日本聖書神学校の補講。その後で、学生たちと一緒に近くのお寿司屋さんで打ち上げ。今年の受講生たちの中には様々な経験を積んだ社会人学生たちが含まれていて面白かった。

19日(金)教会の前に出来た建売住宅の最後の入居者が引っ越して来た。柏木義円研究会の会計報告を整理して、紀要に掲載するために送る。午後は、北支区報『北斗星』の1970年代のバックナンバーを読み返す。1970年代後半の諸教会の実情と課題が見えてくる。夜は支区宣教研究委員会でエパタ教会へ。その後近くの焼き鳥屋さんで、3月に転任する石田歩牧師(弓町本郷教会)の送別会。
  (戒能信生)

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