2015年12月12日土曜日

牧師の日記から(36)「松岡新太郎・きん夫妻のこと」
今年の9月、富士霊園で故・松岡新太郎・きん夫妻の記念会があり、私は招かれて司式をしました。千代田教会とは直接関係がないのですが、不思議な関わりで出会ったこの夫妻のことを短く紹介します。
関東大震災の被災者救援を神戸から来た賀川豊彦が担ったことはよく知られています。そこから生まれたのが、私の前任地の東駒形教会であり、さらに本所基督教産業青年会、光の園保育学校、江東消費組合、中ノ郷信用組合などの広範なセツルメント活動でした。しかしその中で、本所区石原にあった愛の園保育学校のことだけは不明とされて来ました。賀川が始めたことは確かなのですが、それを具体的に担ったのは誰か、その後どうなったのかが分らなかったのです。東京大空襲ですべて焼失しているためです。2011年、ある集会で私が「関東大震災と賀川豊彦」という講演をした時、この愛の園保育学校の卒園生・根岸基さん(市川三本松教会員)が名乗り出てくれました。根岸さんは昭和9年の卒園式の写真を保存しており、その写真が朝日新聞東部版に「愛の園保育学校の卒園写真見つかる」という記事と共に大きく掲載されました。その夕方、一本の電話がかかって来ました。「私の母が愛の園保育学校を運営していました。」それが現在、相模原でいくつもの保育園や福祉施設を擁する社会福祉法人さがみ愛育会の前理事長松岡俊彦さんでした。この松岡さんこそ、当時、愛の園保育学校を運営していた松岡新太郎・きん夫妻の忘れ形見だったのです。
そこから私の調査が始まりました。教団の地下倉庫を捜して、教団創立当時の資料の中から、松岡新太郎の履歴書を探し当てたのです。それによって、新太郎が救世軍の士官だったこと、1941年に創立された日本基督教団の教師に登録されていることなどが分かりました。夫人のきんは、大阪神学校を出た後、賀川の許に身を寄せ、それがきっかけで愛の園保育学校の運営を担ったこと、そして新太郎と出会って結婚し俊彦さんが生まれたこと、戦時下の困難の中でこの保育園を閉鎖せざるを得なくなるものの、戦後、相模原の淵野辺で保育園を再開しようとしたこと、しかしその直前、新太郎は41歳で結核で亡くなり、きんは独力で保育園を運営し、現在のさがみ愛育会の基礎を築いたことなどが次々に判明したのです。当時まだ幼かった長男の俊彦さんは、特に父・新太郎についてほとんど知らずに来たそうです。ですから、この調査によって父・新太郎の経歴と人となりを初めて知ることになるのです。

俊彦さんからの礼状の最後にこう記されていました。「先日、先生に相談した通り、私もこのクリスマスに伊豆八幡野教会で洗礼を受けることに決めました。」私にとっては何よりのクリスマス・プレゼントでした。(戒能信生)

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