2018年6月2日土曜日


牧師の日記から(163

527日(日)主日礼拝。出エジプト記3318-23節の講解説教「後ろ姿の神」。不思議な箇所で、モーセがこれからの荒野の旅において神が共にいてくれることの徴を求める。これに対し、神はただ「わたしは恵もうと思う者を恵み、憐れもうと思う者を憐れむ」と突き放す。しかしその後、次のような不思議なイメージを語っている。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない。」つまり、私たちが精神的な穴蔵のような状態に陥ったときこそ、神はすぐ傍らにいて下さる。そして岩の裂け目に私たちを隠して、神の手で覆い隠される。嵐が過ぎ去った後、事後的にはるかに遠くから去って行くその後ろ姿を仰ぎ見ることはできるというのだ。私自身がこの言葉に支えられ導かれてきた。

28日(月)午前中は東駒形教会での月曜会に出席。ゴンザレスの『キリスト教思想史Ⅱ』の23章を読む。67世紀の教理論争についてはほとんど知らず、分らないことだらけ。しかしこのような一見些末に見える神学議論の果てに、その後の教理史があるのだろう。忍耐しつつ学びを続ける必要がある。

29日(火)東京教区総会に出席のため、富士見町教会へ。お昼の休憩の時、野口倢司さんとそのお友達たちと昼食を共にする。4時頃まで残っていたが、ただひたすら常置委員選挙や教団総会議員選挙が続き、疲れて早退してしまう。

30日(水)午前中、聖書を学び祈る会で士師記13章以下のサムソン物語を取り上げる。サムソンは、他の士師たちとは異なって部族連合の指導者ではなく、ペリシテ族の娘との自分の婚姻をめぐる紛争からペリシテ族と対立する。ナジル人として育てられながら、どう考えても非宗教的な乱暴者だったようだ。このような人物が士師の一人としてカウントされているところに士師記の面白さがある。6月末に招かれている鶴川北教会での説教と小講演の準備をして、聖書箇所などをメールで送稿。

31日(木)朝から西早稲田のキリスト教会館で仕事。古い友人の井本克二牧師が訪ねて来てくれて、学生時代の想い出を語り合った。長く平和学園の宗教主任として働き、退職後は自宅近くの大月新生教会の牧師をしているとのこと。地方の小さな教会の現状を話してくれた。午後からNCAの運営委員会。新年度の各プログラムもそれぞれ順調に始まったようでホッとする。夕方帰宅して、来週の定例長老会のアジェンダを作成して、長老の皆さんに添付メールで送る。

71日(金)午後から農村伝道神学校の授業。爽やかな晴天で、武蔵野の自然が残る山道を歩く。この日は柏木義円を取り上げる。帰宅して一休みして、夜は北支区連合祈祷会に出席のため板橋泉伝道所へ。地下鉄三田線の本蓮沼駅の近くにある可愛い小さな教会。渡邊義明牧師夫妻の奮闘ぶりに頭が下がる想い。10教会から22名が参加して祈りを合わせる。(戒能信生)

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