子育て相談カフェ通信①
4月から木曜日の午後、「子育てカフェ」を開こうと計画しましたが、今のところまだ誰も来ておりません。そんな折、週報の「牧師の日記」に、月1回書いてみたらとのことでしたので、少し経緯と宣伝?をしたいと思います。
私はもともと人前では緊張する性格のせいもあり、仕事でも教会でもずっと子どもと関わってきました。今にして思えば子どもの前では自由になれる、そんな感覚があったのかもしれませんし、単に末っ子であったために弟や妹に憧れていたのかもしれません。そんな私が、子どもから教えられるのは、いつもどんな時も可能性に満ちている、未来に開かれているということです。ただ、現実の現場での言葉でありていに言えば、子どもたちは、たくさんの悩みと不安をいっぱい抱えている、そうした姿に出会っているとも言えましょう。そして、かつての子どもであった親もまた、同じなのです。今、小学生の子どもたちと、その親御さんたちから、いろいろと話を聞いていますと、まあ自分もそうだったなあ、でも今だからわかるけど、あの時はわからなかったなあと振り返らされます。
先日もこんなことがありました。不登校の5年生の「トイレ」問題。緊張するとトイレが近くなり、何度もトイレに行ってしまう。友だちにからかわれたのが学校に行けなくなったきっかけです。今もトイレのことが心配で、学校に行けない。実は、私自身が昔からトイレが近く、緊張するとさらに近くなるという問題の当事者であったために、とても共感しながら話を聞きました。そして、それは自分の特性だから、受け入れていけば良いと伝えました。そうした話をしていると小さな気づきがたくさんあります。実は「子育て相談カフェ」とは言うものの、伝道師として子どもだけでなく、かつての子どもである大人の方の、今とこれからにも関わっていけたらと思っています。
「子育て相談カフェ」は教会がそうであるように、子どもと大人に開かれています。雑談から始まり雑談で終わる。でも、教会という場にあって豊かな恵みが訪れる。そんなことを願っています。関わりが希薄な時代にあって、かつての八百屋のおじさんや銭湯の番台のおばさんのように、気軽に「最近どう?」と声をかけられたらと思っています。対人関係で緊張する私ですが……。
宣伝は小さく、希望は大きく、と思いながら「子育て相談カフェ」の宣伝は教会のバラの花に囲まれています。
(大森意索)