「牧師の日記から」(552)「最近読んだ本の紹介」
渡辺京二『私の幕末維新史』(新潮選書)1980年代に熊本で行われた市民講座「京二塾」で渡辺京二が講演した幻の録音を書籍化したもの。従来の講座派や労農派の硬直した維新観を徹底して相対化し、在野の歴史家として幕末維新史を縦横に語っている。これがもとになって、後に『逝きし世の面影』や『バテレンの世紀』に結実することになるわけで、興味深く読まされた。取り分け、幕末期の薩摩藩や熊本藩、長州藩などの下級武士たちの心情を取り上げているところが興味深かった。例えば吉田松陰の魅力について、高杉晋作や桂小五郎、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋など松下村塾で松陰に学んだ下級武士たちが、その後明治政府の長州閥を形成したことがしばしば取り上げられる。しかし著者は、松下村塾の実態を次のように紹介する。松陰自身は弟子たちを信用せず、「僕は忠義をするつもり、諸友は功業をなすつもり」と弟子たちを批判していたという。桂が、松陰の過激さに手を焼いて、先生を結婚させれば少しは丸くなると勧めたところ、松陰は「桂はダメな奴だ」と切って捨てたというエピソードも紹介している。最後には最も身分の低い足軽の入江杉蔵に心を許して、倒幕の直接行動に出ようとして藩に逮捕され、江戸送りになって最期は刑場の露となった。
これを読んで、明治時代の初期にアメリカ人教師の影響を受けた第一世代のキリスト者たちのことを連想した。熊本洋学校のL.L.ジェーンズや、札幌農学校のW.S.クラークが、短期間に若い学生たちに決定的な人格的影響を与えている。しかしジェーンズにしてもクラークにしても、アメリカに帰国して以降の生涯を追ってみても、さほどの思想家でもなければ教育者としての実績も残していない。つまり彼らは必ずしも偉大な思想家や教育者ではなかったことになる。しかし幕末や明治維新の激動の時期、向学心に燃える若者たちとの間でスパークするような人格的な出会いがあったのではないか。そこに「教育」という奇跡が起こったのではないだろうか。教師である松陰やジェーンズ、クラークが優れた思想家であり人格者であったからと言うよりも、時代の中で「教育」が秘めている無限の可能性を示唆していると考えるべきではないだろうか。(戒能信生)