2026年8月16日日曜日

 

2026年8月23日 午前10時30分

聖霊降臨節第14主日 礼拝(No.21)

             司式 梅本 和義

黙  想         奏楽 釜坂由理子

招  詞  93-1-53

讃 美 歌  8

主の祈り  (93-5A) 

交読詩編  71・1-13

讃 歌 歌  192

聖  書  列王記下16・8-16

      ヨハネ福音書12・1-8

祈  祷

讃 美 歌  450

説  教  「ナルドの香油」

               戒能 信生牧師

讃 美 歌  567

使徒信条  9341A

献  金             田村喜代子

報  告

頌  栄  27

派遣・祝福

後  奏 

 

【本日の集会】

・教会学校(夏休み)

・礼拝後、お茶の会

・大森意索伝道師は、東支区本所緑星教会の説教奉仕に出かけられています。

・柴田朋子伝道師は、北支区下落合教会の説教

 奉仕に出かけられています。

・礼拝堂の後ろに冷たいお茶が用意されていま

 す。水分補給にお用いください。

牧師の日記から(567)「最近読んだ本の紹介」(戒能信生)

阿部正子編『訴歌』(皓星社)から、先週に引き続き、ハンセン病療養所の患者さんたちによって詠まれた短歌のいくつかを紹介する。

「骨埋めむ島とは覚悟定め来て涙落ちたりベッドの上に」

                       小川一男 1939

「病むわれをせめてわが家に死なせむと療園(えん)に入るを父母はこばみぬ」                  大仏正人 1953

「十年前強制の如く送られこし十二人のうち我一人残る」

                        歌川澄夫 1956

「警官にバスを拒否され海沿いのこの道歩みし三十五年前の君」

                        内海俊夫 1978

「癩を病む我を見給ふ父の目は死ねよと如し生みの子我に」

                        瀬戸愛子 1953

「吾の癩告げられし日に死んで呉れといひたりし父の涙も悲し」

                        館 寿樹 1973

「癩全治一号となりたる人は未だ島に住むこの海越へて帰る日はいつ」                     二宮重子 1952

「足を病む我を背負ひて寒き日に医局に通ひし遠き日の夫」

                        北内市子 1988

「手の自由奪われし妻のボタンはめ髪を梳くのも慣れしこの頃」

                        島立 神 1956

「自らの神経痛に苦しみつつ夫はわが手をさすりてくるる」

                        岩本妙子 1965

「二枚づつ塵紙をたたみ小箱におく目しいの夫の取り安きように」

                       石井加代子 1965

「腰痛に起ち居苦しめばわが立つによいしょと傍(そば)に妻が声掛く」                    井上真佐夫 1985

「戦後九年園の民主化なるといへども守衛の壁に手錠掛けてある」

                        横山石鳥 1955

「親子連れ逃走せしは孤児院へ子を送らるる前の夜なりし」

                        木村美村 1935

「記念(かたみ)とて友の遺せしバイブルの金文字の光りわれは偲ぶも」                    向井花一郎 1930

「社会復帰をよろこぶ君のかたはらに病重き君の妻ぎみうつむきて居り」                     深川 徹 1964

「ためらはず癩病む吾らの身のまはり整えくれる若き看護婦」

                        田川健一 1956

「病みゐるをうべないつつも移されし重病棟にきて涙落つ」

                        北村愛子 1960

「すでに目の見えぬ友等と聖歌うたふ光にこだはる思ひ癒へゆく」

                        飯川春乃 1996 

 

2026年8月16日 午前10時30分

聖霊降臨節第13主日 礼拝(No.20)

             司式 石井摩耶子

黙  想         奏楽 梅本 順子

招  詞  93-1-53

讃 美 歌  8

主の祈り  (93-5A) 

交読詩編  70・1-13

讃 歌 歌  470

聖  書  エレミヤ書29・4-7

      エフェソ書2・14-17

讃 美 歌  561

説  教  「園に果樹を植えよ」

               戒能 信生牧師

讃 美 歌  371

使徒信条  9341A

献  金             鈴木志津江

報  告

頌  栄  27

派遣・祝福

後  奏 

 

【本日の集会】

・教会学校(夏休み)

・礼拝後、オリーブの会「私の戦争体験」橋本悠久子、オルゴール演奏(岡﨑祐一)(軽食の用意があります)

・大森意索伝道師は、岡山御津キリスト教会の説教奉仕で出張されています。

・柴田朋子伝道師は、北支区大泉教会の説教奉

 仕に出かけられています。

2026年8月8日土曜日

 

牧師の日記から(566)「最近読んだ本の紹介」(戒能信生)

阿部正子編『訴歌』(皓星社)ハンセン病療養所には患者さんたちによって数多くの短歌や俳句などが残されている。全国の療養所を訪ね歩いて、それを丹念に集め『ハンセン病文学全集』(全10巻)を編集したのが能登恵美子だった。この稀有な編集者が亡くなった後、その中から3300首を抜粋して読みやすく編集し直したのが本書。知人から頂いて、毎日少しずつ味わうようにして読んでいる。患者さんたちの名前の多くは本名ではない。歌われた年代が最後に附されているので、時代背景を想像できるものもある。世間から隔離され、忘れられた存在とされた患者さんたちの生命の叫びであり、技術的な巧拙を越えて訴えるものがある。まさに「訴歌」と言える。いくつか紹介しよう。

「ふるさとのありて帰れぬ君の骨を拾ひて終りぬ波音聞こゆ」

政石蒙 1989

「病み重りし命自ら断ちし父よ吾は眼を病みぬ身は麻痺しゆくに」

須田洋二 1956

「療養所は広く明るくなりたるに病める夫婦の命断ちたり」

青木伸一 1991

「癩園前にバスの停留所出来てより我等が外出きびしくなりぬ」

                       阿南一弘 1966

「帰る家無けれど恋ほし海を越えて灯またたたく故里見れば」

                       宿里礼子 1988

「アララギ会費七十銭に苦しみし石川孝若く死にたり」

                       入江章子 1991

「監房に罵りわらふもの狂ひ夜深く醒めてその声を聴く」

                       明石海人 1939

「年久しく手にふれざりし白粉(おしろい)のかはきて瓶にかさと音たつ」                                                                                                                   瀬戸千秋 1939

「患者三百露軍侵攻に自決せしとふ旧満州の療園の秘話」

                       山本吉徳 1998

「癩病めば優生手術うけて住む夫婦舎地区に子らの声なし」

                       北田由喜子 1973

「藤本松夫の死刑は止めよと大臣に打電し止めどなく涙こぼれつ」

                       田村史朗   1957

「共に病みし藤本松夫の命むなしかりき死刑囚の再審開かれむとして思ふ」                                                       

                       山本吉徳 1980

「園内作業に得し一日の拾円にて買ひ求めたる鉛筆二本」

                       笠居誠一 1953

「噫(ああ)つひに寮友の死刑確定す吾等一万五千の癩者にとりて悲しき日なり」                  

                       深川徹  1960

「後遺症ありて出られぬ寮園(えん)の外社会と呼びて憬れやまず」                     

                       阿南一弘 1966

2026年8月2日日曜日

 

2026年8月9日 午前10時30分

聖霊降臨節第12主日 礼拝(No.19)

             司式 石井 房恵

黙  想         奏楽 内山 央絵

招  詞  93-1-53

讃 美 歌  8

主の祈り  (93-5A) 

交読詩編  69・14-37

讃 歌 歌  289

聖書朗読  申命記7・6-8

ヨハネ福音書11・38-44

祈  祷

讃 美 歌  392

説  教  「ラザロの復活」

               戒能 信生牧師

讃 美 歌  510

使徒信条  9341A

献  金             釜坂由理子

報  告  

頌  栄  27

派遣・祝福

後  奏 

 

【本日の集会】

・教会学校(夏休み)

・礼拝後、「私の愛唱聖句」向山功、

・お茶の会

・受洗準備会(林信子)

・大森意索伝道師は、北支区四谷新生教会の説教奉仕で出かけられています。

・柴田朋子伝道師は、奥羽教区新生釜石教会の

 説教奉仕たために出張されています。

 

 

牧師の日記から(565)「最近読んだ本の紹介」

村上春樹『夏帆』(新潮社)久しぶりの村上春樹の新刊小説。初めて女性を主人公にしている。童話作家の主人公の描くメルヘンが作中作として並行しつつ、独特の村上ワールドが拡がる。私自身の学生時代の生活の拠点であった武蔵境を舞台に、夢の中に現われたアリクイの夫婦の助言にしたがって彼女の冒険が始まる。主題は、なんと母親との対決!村上春樹の小説には、親子関係のモティーフが希薄とされる。この国の私小説の多くが父親との確執がテーマとされる中で、彼の作品には父親も母親もほとんど登場しないのだ。その意味では新たな挑戦と言える。ただ、以前のいくつかの作品に見られた現代社会の問題を比喩的に取り上げる傾向は影を潜めてファンタジーに徹している。あまり深読みせずに、相変わらず読みやすく見事な文体でつづられる村上ワールドを堪能した。

熊谷誠人『詩人茨木のり子の誕生 西尾の少女の物語』(風媒社)茨木のり子の私生活にはいくつものヴェールで覆われていて、それが彼女の詩の魅力にもなっている。だから詩人の少女時代の実像を晒すことにある抵抗と違和感があった。しかし本書は、詩人のプライバシーをできる限り尊重しながら、戦時下のこの国の教育の中での一人の少女の成長を、当時の資料に基づいて暖かく見つめていく。そこには著者の詩人へのリスペクトと節度ある距離感が読み取れて好感が持てる。実際に茨木のり子の詩の中に、少女時代の記憶や体験が反映されており、その解析が見事で詩の読解が深まる。友人の杉本誠牧師の西尾教会がある街が背景になっていることもあって、興味深く読まされた。

会田弘継『それでもなぜ、トランプは支持されるのか』(東洋経済新報社)トランプ政権を支持するアメリカ福音派についての解説本を何冊か読んだが、あまり納得できないでいた。著者たちがいずれもトランプ政権やその支持者に対して批判的な立場から論じていることもあって、あのように傍若無人で自己愛過剰な独裁者がなぜ人々から支持されるのか理解できないでいた。そのことにこの欄で触れたのを見てか、梅本和義さんが著者から贈呈された本書を貸してくれた。この本の中で前提とされるアメリカ政治思想史については全く予備知識がないが、初めて知ることが多く教えられた。共和党は保守、民主党はリベラルと漠然と決め込んでいたが、この30年の間にアメリカにおける政党の質が根本的に変質してきたこと、さらに言えばオバマ政権下の経済政策の無策の結果が、トランプ現象の背景にあるというのだ。「幸福な国はトランプを大統領に選んだりしない。絶望している国だから選んだのだ」というあるジャーナリストの言葉が問題の所在を端的に示唆している。極端な経済格差が拡大し、特に学歴のない白人層に「絶望死!」が拡がっているという。想像していたよりもアメリカ社会の内部対立と分断は激しく、危険水位に達している現実に慄然とさせられた。それはこの国とも無縁ではないのだろう。(戒能信生)

2026年7月18日土曜日

 

子育て相談カフェ通信⑭「子どもの教会」

 子どもが見ている世界と大人が見ている世界とはどうも違うようです。大人と言っても、仕事の世界で見えていることと、家庭で見えていることは違うのではないかと思います。私とあなたも、同じに見えているという前提でいますが、本当は見えていることが違っているかもしれません。私たちは多かれ少なかれ、自分勝手で自分の「モノサシ」でしか見ることができないという限界を持っているのでしょう。私たちは自分の「モノサシ」でしか見えないのです。

なぜ、そんなことを考えたかと言いますと、学習障害と言われる、読み書きの苦手がお子さんの中に、見え方が全く違っているお子さんがいるのです。見え方と言っても近視とか乱視といった視覚の問題ではなくて、画像処理が違っているお子さんがいます。それは画像としては同じに捉えられているのだけれど、それを脳で処理するところでの違いということです。つまり、まん○が楕円に見えていたり、正三角形が歪んで見えていたりしているということです。そうした見え方が違っている子に、枠の中に綺麗な字を書きましょうといっても、とても難しいのです。

見え方は同じであっても、同じ出来事を、どう受け止めるかはそれぞれ違った「モノサシ」で考えているのです。最近、改めてそうしたことを考えさせられる出来事があり、このことを思わされました。人はみな自分の「モノサシ」でしか見ることができないという限界の中にあるのです。そうした限界の中で立ち現れる、別の視点。聖書はそのことをもまた指し示しているのだなあと思ったりします。そうした気づくようにとの促し。パウロはコリントの人たちに語ります。字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(1コリント1:18)。自分の「モノサシ」でしか見ることができない限界の中で、別の「モノサシ」のあることを示しているのだと思っています。(大森意索)