子育て相談カフェ通信⑭「子どもの教会」
子どもが見ている世界と大人が見ている世界とはどうも違うようです。大人と言っても、仕事の世界で見えていることと、家庭で見えていることは違うのではないかと思います。私とあなたも、同じに見えているという前提でいますが、本当は見えていることが違っているかもしれません。私たちは多かれ少なかれ、自分勝手で自分の「モノサシ」でしか見ることができないという限界を持っているのでしょう。私たちは自分の「モノサシ」でしか見えないのです。
なぜ、そんなことを考えたかと言いますと、学習障害と言われる、読み書きの苦手がお子さんの中に、見え方が全く違っているお子さんがいるのです。見え方と言っても近視とか乱視といった視覚の問題ではなくて、画像処理が違っているお子さんがいます。それは画像としては同じに捉えられているのだけれど、それを脳で処理するところでの違いということです。つまり、まん○が楕円に見えていたり、正三角形が歪んで見えていたりしているということです。そうした見え方が違っている子に、枠の中に綺麗な字を書きましょうといっても、とても難しいのです。
見え方は同じであっても、同じ出来事を、どう受け止めるかはそれぞれ違った「モノサシ」で考えているのです。最近、改めてそうしたことを考えさせられる出来事があり、このことを思わされました。人はみな自分の「モノサシ」でしか見ることができないという限界の中にあるのです。そうした限界の中で立ち現れる、別の視点。聖書はそのことをもまた指し示しているのだなあと思ったりします。そうした気づくようにとの促し。パウロはコリントの人たちに語ります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(1コリント1:18)。自分の「モノサシ」でしか見ることができない限界の中で、別の「モノサシ」のあることを示しているのだと思っています。(大森意索)