2024年4月7日日曜日

 

 牧師の日記から(463)「最近読んだ本の紹介」

茨木のり子『言の葉①②③』(ちくま文庫)この文庫本三冊に、茨木のり子のほとんど全詩集が収録され、さらに彼女のエッセーの主なものも収められ、この詩人の作品全体を見渡すことができる。この二ヶ月ほどの間に、この三冊を初めから終わりまで二度繰り返して読んだ。私は詩集などをきちんと読んでこなかったので、これは例外的なことになる。

先ずその詩だが、8冊の詩集『対話』『見えない配達夫』『鎮魂歌』『人名詩集』『自分の感受性くらい』『寸志』『食卓に珈琲の匂い流れ』『倚りかからず』からセレクトされたもの、詩集に未収録の詩、加えて韓国現代詩から著者が選び訳した数編が含まれている。現代詩は、人によって好き嫌いがあるだろうが、私自身が繰り返し読んで、心に残った詩の断片を、いくつか紹介してみよう。

「ぱさぱさに乾いてゆく心を/人のせいにするな/みずから水やりを怠っておいて・・・初心の消えかかるのを/暮しのせいにするな/そもそもが ひよわな志にすぎなかった/駄目なことの一切を/時代のせいにするな/わずかに光る尊厳の放棄/自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」『自分の感受性くらい』

「戦争責任を問われて/その人は言った/そういう言葉のアヤについて/文学方面はあまり研究していないので/お答えできかねます/思わず笑いが込みあげて/どす黒い笑い吐血のように/噴きあげては止まり また噴きあげる/三歳の童子だって笑い出すだろう/文学研究せねば あばばばばと言えないとしたら/四つの島/笑ぎに笑ぎてどよもすか/三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア・・・」『四海波静』

 「人間には/行方不明の時間が必要です/なぜかはわからないけれど/そんなふうに囁くものがあるのです/三十分であれ 一時間であれ/ポワンと一人/なにものからも離れて/うたたねにしろ/瞑想にしろ/不埒なことをいたすにしろ・・・」『行方不明の時間』

 茨木のり子のエッセーは、不思議にも再読出来る。金子光晴や山之口貘、井伏鱒二の詩についての文章を、繰り返し楽しみながら読めるのだ。詩人だから言葉についての感覚が鋭いのは当然だが、次の一文にハッとさせられた。「聖書の今までの文語訳に比べて、新しい口語訳のいかにも間のびして味わいに乏しいかということはだれの目にも一目瞭然である。」ここまでは、しばしば聞くことだが、続いてこう述べる。「文語がどのようにして生まれ練りあげられてきたのか。母胎は漢文であろうし、奈良時代からとしても千年以上の歴史があるわけである。万葉仮名を案出し、吃り吃りぎくしゃくと文体を創りあげていった草創期から、文語の流麗さに至るまでご先祖達の払った苦労を思うと、なんともいえないいとおしさが湧いてくる。」つまり千年の歴史のある文語に比べて、口語はまだ百年足らずだという指摘に思わず納得させられた。(戒能信生)

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