自己紹介 柴田朋子
5月から担任教師として迎えていただきました柴田朋子です。導いてくださった主に感謝しています。千代田教会のみなさんとご一緒に礼拝を献げ、教会生活を送ることを楽しみにしています。
2024年3月に神学校を卒業したあと、キリスト教主義学校や保育園、キリスト教団体などの礼拝でメッセージをする機会をいただくことが増えました。そうした場では、出席する人たちの多くはキリスト者ではありません。特に学校では、キリスト教に興味がない生徒や、反発する生徒もいるはずです。教会の礼拝であれば、出席者はキリスト者か、少なくともキリスト教に関心のある人たちですから、「キリストに従って生きるのは当然のこと」という前提でお話しすることもできるのですが、教会外ではそういうわけにはいきません。毎回、どんなふうに語るべきか悩みながら準備をしています。
先日は、私が卒業したキリスト教主義学校の同窓会で、この一年間に亡くなった方たちをおぼえる追悼礼拝の説教を担当しました。第二コリント1章から「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(4節)という言葉を中心にお話ししました。ここで「あらゆる苦難」とありますが、著者のパウロはあくまでキリスト者として生きる上での苦難、信仰ゆえに受ける迫害などについて語っているということに、準備の段階で気づきました。そのような苦難について、キリスト者ではない人たちはどこまで自分のこととして受け止めることができるでしょうか。「人生において経験する苦難」に敷衍して語れば伝わりやすくなるとは思いますが、それでは聖書の言葉から外れてしまうのではないか、考え込んでしまいました。結局、人生におけるすべての苦難ではなく、「真理や正義を求め、自分の信じる道を進もうとするときに経験する苦難」に絞り、話を組み立てることにしました。
現代日本において伝道の目標を、相手がキリストを信じ洗礼を受けること、キリスト者人口を増やすことにおくのは、無理があると認めざるを得ません。しかし、非キリスト者に対しても、キリストの愛、神の平和と正義を伝えることには確かに意味があると信じ、可能な限り伝わる言葉を探し続けたいと願っています。
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