2019年5月18日土曜日


牧師の日記から(214)「最近読んだ本紹介」

大貫隆『終末論の系譜』(筑摩書房)新約聖書学者の大貫隆さんの、これまでの研究の集大成とも言うべき500頁を越える大著。初期ユダヤ教からグノーシスまで、つまり紀元前2世紀頃から、紀元2世紀終盤頃までの終末論の変遷を整理してまとめてくれている。従来の聖書学では、旧約聖書の終末思想、あるいは新約聖書の黙示文学的背景として、それらは別個に取り上げられてきたが、この書物では旧約から新約を貫く終末思想の展開と変遷が、外典も含めて大胆に整理される。その一つ一つの細かな論述の背景に、著者の膨大な研究蓄積が込められていることに気づかされる。一回通読しただけではとても理解し切れない。今後は巻末のインデックスを頼りに、繰り返しこの書を繙くことになるのだろう。ただ、しきりに引用されるベンヤミンやアガンベンの聖書解釈についての議論は、前著の『イエスの時』でもそうであったが、どうしてもついて行けない。この本の中でも著者はこう言う。「『イエスという経験』を繙き始めたものの、読むに耐えなくなって、途中で放り出してしまった読者もいる。それは他でもない私が長く敬愛してきた牧師であり、それまで内外の批判的なイエス研究を数多く読みこなしてきた人物である」と。まさにそれは私自身のことを指しているようだ。そして著者は続けてこう書く。「これらの反応が一致して示しているのは、抜きがたい近代主義である。・・・そのような近代主義からは一体どのようなイエス像が描き出されただろうか」と。この痛烈な批判にどう応えるべきか課題を与えられた。

村木嵐『夏の坂道』(潮出版社)硬骨の政治学者南原繁の生涯を小説化したもの。よく調べてあるのだが、どこか通俗小説を読んでいるような印象を受ける。三谷隆信と南原の交友を軸に書かれているのだが、矢内原忠雄と三谷との親交については全く触れられていない。そもそも南原が初めて内村鑑三を訪ねたところに一高生の矢内原が顔を出すなどという史実はあり得ない。何より会話がすべて現代語風に書かれているので、何とも間が抜けてしまう感がある。南原繁を小説化しようとする勇気は多とするが、どうも期待外れの一冊だった。

鈴木範久『文語訳聖書を読む 名句と用例』(ちくま学芸文庫)本書の前半は日本語訳聖書の歴史の素描で、簡にして要を得ていてとても役に立つ。特に「主の祈り」が各翻訳でどのように訳されているかの実例が挙げられており、それを比較するだけで、それぞれの翻訳の特徴を理解することが出来る。しかし何と言ってもこの書物の読みどころは、内村鑑三から始まって太宰治に至るまで、この国の文学者や宗教者の著作に聖書がどのように引用されているかを紹介する第3章。また第4章では、それこそ明治以来の思想家、文学者、政治家たちに文語訳の旧新約聖書がどの引用され理解されているかを網羅的に紹介している。こんな調査は、長い時間をかけて、カードを作成しながら忍耐をもって継続しなければ出来ない力業で、鈴木範久先生ならではの仕事と感服させられた。(戒能信生)

0 件のコメント:

コメントを投稿