2019年6月8日土曜日


牧師の日記から(217)「最近読んだ本の紹介」

ヴァルター・ベンヤミン『歴史の概念について』(未来社)現代思想でもしばしば引用されるベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」が、鹿島徹さんの詳細な評注付きの新訳で出版されたので目を通した。ユダヤ系思想家ベンヤミンは、1940年にナチスを逃れてフランスからスペインに亡命途中のピレネー山中で自死している。その最期まで手許に置いて手を入れ続けた草稿が、その後ハンナ・アーレントによってアメリカに持ち込まれて出版される。その自筆原稿は、19のテーゼからなる短いもので、原文はきわめて難渋な表現に満ちている。しかし同時にそれは、読む者に様々な想像力を掻き立てる喚起力をもっている。例えば「歴史とは構成の対象である。その構成がなされる場は、均質で空虚な時間ではなく、今の時に充ちている時間である」というテーゼ14の冒頭の言葉は、アガンベンによってパウロ解釈のキー・ワードとして取り上げられ、大貫隆さんも確か「全時的今」として繰り返し引用していたと思う。つまり歴史は無機質な時の流れではなく、ずっと遠い過去の出来事が、現在において全く新しく解釈され、さらに未来への使信として意味をもつことを指しているのだろう。しかしそんなことは、言ってみれば説教者が毎日曜日の礼拝で、古い古い聖書テキストを通して、現在について語り、未来を指し示すことを通して実践していることではないか。ただ次のようなフレーズは強烈なイメージを喚起する。「7月革命(1830年)において、戦闘が始まった日の夕暮れどきに、パリのいくつかの場所でそれぞれ独立に、しかも同時に塔の時計に向かって銃撃がなされたのだ。そのときある人が次のように書いた。『だれが信じられよう!時にたいする怒りから、どの塔の足元においても新たなヨシュアたちが、日の運行を停めるために文字盤を撃ったという。』」(テーゼ15)旧約聖書のヨシュア記10章「日はとどまり、月は動きを止めた、民が敵を打ち破るまで」という古代のテキストが、生き生きと立ち上がって来る。

乗浩子『教皇フランシスコ』(平凡社新書)今年秋に教皇が来日するということもあって、何冊ものフランシスコ教皇についての書籍が出版されている。著者(「乗」と書いて「よつのや」と読ませるそうだ!)はクリスチャンではなく、ラテン・アメリカ近現代史の研究者と知って読んでみた。もちろん初めて南半球から選出された教皇の歩みを忠実に紹介しているのだが、なんとスペインとポルトガルによる南アメリカの侵略と支配の歴史から説き起こしている。特に、1960年代以降のブラジル、アルゼンチン、チリ、ニカラグア、エルサルバトル、グアテマラなどの軍事独裁政権とカトリックとの癒着もきちんと押さえられている。そしてそれに抵抗する解放の神学の流れも、簡略ながら触れられている。その葛藤の中で、ブエノスアイレス生まれのイタリア移民の息子ホルヘ・マリオ・ベルグリオがどのように司祭を志し、司牧に励み、司教、枢機卿となり、バチカンの中で頭角を現わして来たのかが紹介されている。信頼できる評伝と言えるだろう。

(戒能信生)

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