2021年2月6日土曜日

 

牧師の日記から(304)「最近読んだ本の紹介」

宮田光雄『ボンヘッファー 反ナチ抵抗者の生涯と思想』(岩波現代文庫)宮田先生から頂いて部分的に流し読みしたままだったのを、改めて初めから精読した。ボンヘッファーについては多くの評伝や研究書があるが、本書は小さいながらその決定版とも言うべき内容になっている。というのも、逮捕後の獄中書簡の詳細な分析や最近の資料的研究を踏まえて、いわば最期のボンヘッファーの思想と信仰を描き出そうとしている。印象に残った幾つかを紹介しよう。何篇かの獄中詩が残されているが、最後の詩が『讃美歌21469番にある「善き力にわれかこまれて」。19441219日、婚約者マリーアに宛てた手紙の文末に、この詩は記されていたという。『讃美歌21』では5節までとなっているが、原詩は7連から成り、その逐語訳と詳細な解説に添えられている。既に処刑を予期し、婚約者に別れを告げながら、しかし「善き力」への静かな信頼が歌われている。

神という作業仮説なしに、この世で生きるようにさせたもう神こそ、我々がたえずその御前に立っているところの神なのだ。神の御前で、神と共に、我々は神なしに生きる」(1944716日)。獄中書簡のこの謎のような一節は、1960年代のアメリカにおけるセキュラリズム論争(H・コックスの『世俗都市』)や「神の死の神学」との関連でしばしば引用されて来た。宮田先生は、それを本来のボンヘッファーのコンテキストに置き直し、「この世を神なきものと見る経験を神に対する信仰と結合した」と見る。そこにボンヘッファー独自の「非宗教的キリスト教」理解があるとする。実はこの個所の直前には「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」というイエスの最後の言葉が引かれている。先生は「このイエスの呼びかけには、逆説的な形で、神への祈りがあるのではないか。イエスは神に身を向け、彼を見捨てた神を彼と共にいたもう神として経験するのだから」と説明する。そしてさらに「神から離反し神から遠く離れた場所に立つ私たち」に、「この十字架において神御自身が人間の苦難と死の深みにまで連帯されたことを示す」と解釈する。その時ボンヘッファーの信仰理解は、現在に生きる私たちに語りかける深みと希望を指し示す。

もう一つボンヘッファーの言葉。「これまでの年月の間、ただ自己保身のためにだけ戦って来た我々の教会は、人々のために、またこの世のための和解と救いの言葉の担い手である力をなくしてしまった。だから、これまでの言葉は無力になり、口がきけないような状態にならざるを得ない。そして、我々がキリスト者であるということは、今日では、ただ二つのことにおいてのみ成り立つだろう。すなわち、祈ることと人々のあいだで正義を行うことだ」(19445月)。この有名な言葉を、私自身いろいろな機会に引用して来た。しかしこの本で、この言葉が友人であり弟子でもあったベートゲの息子の幼児洗礼を祝福する手紙に書かれたということを初めて知ることができた。(戒能信生)

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