「希望の砦」柴田朋子
希望をもつのが難しい。そう思う日が増えてきました。
国会では7月、国旗損壊罪法や改正皇室典範が成立しました。国旗を使った表現は大きく制約されることになります。皇室典範改正においては、神話上の人物である神武天皇が当然のように持ち出され、「2600年以上にわたる皇室の伝統」というフィクションが堂々と語られていました。立法の場でそのようなことが議論されるとは、とても近代国家とは思えません。
そして7月22日、熊本日日新聞によって、陸上自衛隊情報部隊が市民数千人について「愛国心」など思想信条の情報を組織的に調査・収集していることが報じられました。憲法違反の大問題になると思った矢先、「国家情報局」の設置が閣議決定されました。
何年も前から、世の中の空気が戦前に近づいているということが指摘され、このままでは日本が再び戦争への道を歩むようになるという危惧も繰り返し語られてきました。私自身、強い危機感を抱いています。少なくとも国家による思想統制は露骨な現実になりつつあるように感じます。
排外主義的な政策も強化されています。入管庁による「不法滞在者ゼロプラン」はいっそう強化され、外国人の強制送還が積極的に行われています。先日は、難民認定を求める訴訟に敗訴した男性が、自主帰国を決めて東京入管に出頭し、そのまま拘束・収容されるということも起こりました。収容に耐えられる体調ではなく、健康状態の悪化が心配されました。支援者たちが抗議し、数日後に解放されましたが、必要性のない、非人道的な収容であったのは明らかでした。権力がその気になれば、人の自由も尊厳も簡単に奪われてしまうという現実に、怒りと悔しさで気持ちがはち切れそうになります。
社会において正義と平和の実現を目指し、希望をもち続けることはキリスト者の責任だと信じています。一方で、自分の無力さに打ちのめされることもしばしばあります。ですが聖書は言います。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが/主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る」(イザヤ書40章30-31節)。一度は疲れ倒れても、あるいは何度倒れても、主に望みを置くなら新たに力を与えられる。何度絶望したとしても、主に望みを置くのなら、自由にこの空を飛ぶことのできる翼を与えられる。
そのことを信じ、希望をもち続けたいと願います。そして教会は、絶望した人が訪れ、希望を与えられて再び立ち上がる場所でありたいと願うのです。教会が、希望の砦であるように。神の望まれる正義と平和を追い求める人々の砦、そこで希望を与えられて世界へと歩み出していく場であるように。
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